獅子風蓮のつぶやきブログ

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増田弘『石橋湛山』を読む。(その16)

2024-04-06 01:52:56 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想には、私も賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

そこで、石橋湛山の人生と思想について、私なりの視点から調べてみました。

まずは、定番というべきこの本から。

増田弘『石橋湛山』(中公新書、1995.05)

目次)
□はじめに
□第1章 幼年・少年・青年期
□第2章 リベラリズムの高揚
■第3章 中国革命の躍動
□第4章 暗黒の時代
□第5章 日本再建の方途
□第6章 政権の中枢へ
□第7章 世界平和の実現を目指して
□おわりに


第3章 中国革命の躍動――1920年代
□1)小日本主義
□2)満州放棄論
□3)ワシントン会議...一切を捨てる覚悟
□4)中国ナショナリズム運動... 「支那」を尊敬すべし
■5)山東出兵...田中サーベル外交は無用
□6)北伐完成後の満蒙問題... 危険な満蒙独立論


5)山東出兵...田中サーベル外交は無用
1927年(昭和2)4月、わが国では若槻憲政会内閣が倒れ、代わって田中義一を首班とする政友会内閣が成立した。政友会は野党時代に幣原外交を「軟弱外交」と罵倒し、帝国の威信や利権擁護を叫び、「自主強硬外交」を提唱した。そこで田中新内閣が中国の排外的ナショナリズム運動にいかに積極的に対処するかが大いに注目された。
はたして5月、北伐軍が山東半島に接近すると、田中内閣は在留邦人保護を理由に山東出兵を断行した。湛山は「心ある国民の等しく恐れた所が遂に実現した」と感想を述べ、田中「サーベル外交」への不信の念を強めると同時に、幣原時代の対中国「和親方針」が崩れたことを嘆いた。さらに今回の措置がシベリア出兵の「覆轍(ふくてつ・前回の失敗)を踏むもの」であり、この出兵がわが国民に「大災害をもたらす」と予言した(6月4日号時評「ああ遂に対支出兵」『全集⑤』)。
周知のとおり、6月末に田中内閣は東方会議を開き、対中国方針に関する中央と出先との意思の疎通を図った。そして7月最終日には外相より「対支政策綱領」と題する訓示がなされ、極東の平和確保と日中共栄の実を挙げることをその根幹としながらも、実行方法は中国本土と満蒙では自ら異なるとして、中国本土における政権争奪の内戦には中立的態度で臨むが、満蒙に対しては日本の特殊な地位を尊重し、政情安定を支持および援助するとした。中国側は日本政府がこの会議で満蒙への積極策を決定したものとみなし、「田中メモランダム」と称する怪文書を公表するなど、列強の間に少なからぬ疑惑をもたらした(外務省外交史料館日本外交史辞典編纂委員会編『日本外交史辞典』611~2ページ)。
実際田中内閣は翌28年(同3)4月、再び開始された大規模な北伐に対処するため第二次出兵を断行した。その結果北伐軍との武力衝突事件(済南事件)が発生し、1万5000の増援部隊派遣を決定せざるをえず、5月、第三次出兵が実施された。湛山はこのような日中間の緊迫した事態に対し、「支那に於ては、内外人を問わず武力を用うるものは、総て反感を買い、斥せられる。この点を、我が国民は深く考えねばならぬ」と訴え、「結局対支政策は好むにせよ好まぬにせよ、放任の外に取るべき方法はない」と持説を繰り返して、即時撤兵を主張した(5月5日号社説「無用なる対支出兵」『全集⑥』)。
こうして山東出兵は日中両軍の衝突という最悪の事態を招いたが、北伐軍は日本軍との戦闘を回避し、北京の張作霖政権打倒を第一義としたため危局は去った。南北両軍の全面対決が間近となった6月、満蒙利権の確保を図る田中政権は、張に対して根拠地東三省への帰還を要求し、最終的に張もこれを受諾した。ところが満蒙の分離独立を目指す河本大作大佐ら関東軍の一部が決起し、張作霖爆殺事件(満州某重大事件)が発覚する。ここに北伐は完了、蒋介石を首班とする南京政権が誕生した。しかも同年末には満州の新しい支配者張学良のいわゆる易幟(えきし)により、十数年ぶりに全中国の統一が達成されるに至った。
この時期、湛山から初めて中国批判が起こった。それは7月に南京新政権が不平等条約破棄および臨時弁法実施を宣言し、日本に対しても日華通商条約の破棄を一方的に通告した時であった。湛山は、①今回の通告は甚だ遺憾である。②不平等条約改訂は当然の要求であるが、事には順序がある。③中国の不平等条約は一面「列国の飽くなき帝国主義的野心の結果」であるが、他面「其罪の最も大なるものは支那国民自身に存す」。④第一革命以来の国民運動は言葉の立派さに比して実行力なきを証明した。「総て政治は実力(兵力の意味ではない)だ。実力を伴わぬ主張は、何んな立派な主張であっても、空言だ」。⑤新政府は現在北伐に成功したばかりで、その跡始末は何もできていない。「そこに突如として条約破棄、臨時弁法の実施を声明したとて、世界の何国が直ちに之に応じ得よう」。⑥それどころか、中国との通商といった事態となれば、貿易に従事する外国人と同様に中国国民も損害を受ける。したがって、今回の要求は「支那自身として経済的に実行不可能の事柄であって、……折角の南方政府の事業を破綻に導くものである」(7月28日号社説「支那は先ず其実力を養うべし」『全集⑥』)と説いた。
しかしながら湛山の予想ははずれた。7月下旬、アメリカ政府は他国に先駆けて新中国政府と新関税条約を締結し、中国の関税自主権回復を認めたばかりか、11月には蒋介石政権の承認に踏み切ったのである。この劇的な米中接近は、国務長官ケロッグ (Frank B. Kellogg) の判断とその意志を受けた国務次官補ジョンソン (Nelson T. Johnson) の働きが深く関与した(入江昭著『極東新秩序の模索』66頁)。しかも12月にはイギリス、フランスもアメリカに追随したため、日本のみが取り残される結果となった。この新事態に対して湛山は次のように手厳しく論難した。中国国民は「内に自ら実力を養うを計らずして、常に他力に頼って我に利せん」とする「やくざな駄々っ子」であり、アメリカは「支那国民の耳に愉快に聞えそうな声明」を出し、「其駄々を募らせる。而して……其実力の発達を遅滞せしむることは、やがて米国民に取っても決して利益でない」(8月4日号社説「駄々ッ子支那」『全集⑥』)。米中関係の急展開に日本政府と同様、湛山もまた戸惑わざるをえなかったのである。

 

 

 


解説
この時期、湛山から初めて中国批判が起こった。それは7月に南京新政権が不平等条約破棄および臨時弁法実施を宣言し、日本に対しても日華通商条約の破棄を一方的に通告した時であった。

リアリスト湛山は、中国べったりという訳ではなく、理不尽な中国の行動には、堂々と非を唱えていたのですね。

 

獅子風蓮