獅子風蓮のつぶやきブログ

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増田弘『石橋湛山』を読む。(その22)

2024-04-16 01:40:42 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想には、私も賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

そこで、石橋湛山の人生と思想について、私なりの視点から調べてみました。

まずは、定番というべきこの本から。

増田弘『石橋湛山』(中公新書、1995.05)

目次)
□はじめに
□第1章 幼年・少年・青年期
□第2章 リベラリズムの高揚
□第3章 中国革命の躍動
□第4章 暗黒の時代
■第5章 日本再建の方途
□第6章 政権の中枢へ
□第7章 世界平和の実現を目指して
□おわりに


第5章 日本再建の方途――1940年代後半
□1)小日本主義の実現... 前途は実に洋々たり
□2)異色の大蔵大臣... 自力更正論
□3)石橋「積極」財政とGHQとの対立
■4)理不尽な公職追放


4)理不尽な公職追放

いうまでもなく、占領軍は絶大な権限を有していた。マッカーサーは天皇を凌ぐ権威として日本に君臨した。その占領軍を相手に湛山が一歩も引かず、敗戦国とはいえ正当な理論をもって抵抗する姿に、国民世論が密かに拍手喝采しても不思議ではなかった。次第に世評は湛山を「気骨ある男」として英雄視しはじめた。政界でも湛山の株が上がりはじめた。自由党では大野伴睦幹事長などが「次の総裁は石橋だ」と公言して憚らなかった(宮崎吉政著『No2の人 自民党幹事長』15頁)。実際湛山は1947年(昭和22)の二・一スト騒動でも、河合良成厚生相とともに矢面に立って頑張り通した。また4月の総選挙で湛山は党の選挙対策委員長を務めることになるが、このポストは資金面から立候補者を世話する要職であった。つまり財界筋からも一定の支持を得ていたのである。しかも総選挙を控えた3月、政界の黒幕といわれる辻嘉六が湛山を招き、初対面の湛山に対し「自由党副総裁(総裁説もある)にさせる」と述べた。

このような湛山の政治的影響力の拡大は、吉田陣営にとってもはや無視できないものとなった。吉田がワンマンと呼ばれるほどの実力を備えるのは第三次内閣を組織する1949年(同24)頃からであり、当時の吉田は鳩山が追放解除となるまでの代理程度にみなされていたにすぎず、党内基盤はまだ弱かった。これに比して鳩山派の正統者とみなされる湛山は、吉田側にとって自陣を脅かすライバル的存在として映りはじめた。すでに両者の間では、前年秋から冬にかけて、インフレ問題と石炭増産問題をめぐり感情的齟齬を生じていた。内閣成立以後、吉田は湛山に経済財政問題一切を任せていたが、湛山をインフレーショニストと批判する見解が広がるにつれて、吉田は次第に有沢広巳東京大学教授を軸とする学者グループへと傾いていった。しかもこれに政治問題が加わっていく。すなわち、前年末からこの47年(同22)初春にかけて、社会党との連立工作問題と閣僚人事問題をめぐり両者間に確執が生ずるのである。
二・一ゼネスト問題が注目されつつあった時期、吉田は密かに社会党との連立工作を開始した。吉田は与党の自由・進歩両党に野党の社会党を加えた挙国連立内閣を組織して、この最大の労働攻勢を乗り越えようとしたのである。交渉相手は西尾末広と平野力三であった。しかし社会党への閣僚配分数と石橋蔵相の処遇(社会党は石橋辞任を要求)をめぐり妥協が得られず、失敗に終わった。連立工作の事実を知らされた湛山らは、吉田の秘密主義に不快感を抱いた。1月17日の日記には、「午後2時より臨時閣議、吉田総理の社会党との連立内閣運動失敗の経緯発表、はじめより予想された所なるが不手際も甚だし」とある(前掲「湛山日記――昭和20―22年』178頁)。湛山としては社会党を自陣に取り込んで最大の危機を突破するよりも、むしろ力量不足の閣僚更迭して、当面の石炭問題を解決し、経済再建を軌道に乗せたいと願望していた。この趣旨から、湛山は平塚常次郎運輸相、河合厚生相、膳桂之助国務相と会談し、平塚の石炭庁長官転任を決め、吉田に要請したが、拒否される経緯があった。吉田とすれば、湛山らが共同戦線を形成したと疑わざるをえなかった。
1月末、吉田は再度の連立工作を行なったが、またも失敗に終わると、ただちに内閣改造を断行した。今回の人事の特色は、従来から閣僚の間で不評を買っていた和田博雄農相が退陣する代わりに、湛山と緊密な平塚、膳が閣外に去り、いわば喧嘩両成敗の措置が取られたことであった。そして湛山は経済安定本部(いわゆる安本)長官と物価庁長官を兼任した。しかしそれは一時的措置であり、吉田は安本長官に近々有沢を据える意向であった。これに対して湛山は中山伊知郎を推す予定であった(湛山の元秘書谷一士氏の証言)から、吉田の意向に「あ然」とした。吉田と湛山はこうして離反していった。その根底に両者の戦後に処する基本姿勢および政治理念の差異が存在したことは、既述のとおりである。
さて二・一ストがマッカーサーの政治的介入により決着すると、今度は湛山が吉田に代わり社会党との連立工作に乗り出した。二度の不成立が自己の進退問題と関わっていたからである。2月上旬に西尾と会見した湛山は、三党連立のためならば蔵相辞任も辞さないと申し出た。改めて湛山、西尾、河合(進歩党)、水谷長三郎(社会党)の四者協議が持たれると、連立に際しての政策内容、閣僚配分数などが意外にも順調に進展し、ほぼまとまるに至った。そこで翌日に湛山は首相官邸で吉田に面会したが、折しも進歩党が新党設立問題で紛糾していたのと、自由党でも芦田均が同志数名とともに脱党し、進歩党へ加わる騒動(その結果、民主党結成となる)が発生したため、連立問題について吉田と十分話し合えなかった。しかし湛山は吉田がこの工作に異論がないものと信じて疑わなかった。それは湛山の一方的解釈にすぎなかった。まもなく吉田は湛山に「連立内閣を取り止める」と言明し、湛山を驚かせた。西尾は、「石橋さんに多少の連絡不備の手落ちがあったにせよ、交渉の全権を事前に石橋氏に一任しておきながら、吉田氏のワンマンぶりによって、ドタン場で急変したというのが、ことの真相のようである」と述べている(同著『西尾末広の政治覚書』103頁)。
ともかく湛山らが苦心して作り上げた連立内閣構想は瞬時にして崩れ去った。吉田側の言い分では、この工作の最中、マッカーサーから吉田に議会の解散、そして新憲法下での総選挙実施が指令されていたとのことであるが、やはり吉田側に湛山の政治的台頭への恐れがあったことは否定できないであろう。
3月31日、衆議院は解散となり、4月25日に戦後二度目、新憲法下初の総選挙が実施された。湛山は静岡二区(沼津、三島、御殿場方面および伊豆半島一帯)から立候補し、トップ当選を果たした。湛山と静岡県とは直接の繋りはなかったが、湛山の人柄に惚れ込んだ佐藤虎次郎代議士が、あえて自分の選挙基盤を湛山に譲ったという美談が伝えられている。しかし自由党は131議席を獲得したに止まり、社会党の143議席を下回る結果となった。とはいえ社会党も過半数にはほど遠く、政権の帰趨は揺れ動くこととなった。この間GHQ側、とくにポツダム精神を具現化する先陣役を果たしてきたGSのケーディスらニューディーラーたちは、新憲法体制を日本国内に浸透させるためにも、吉田保守政権の存続を断固として阻止し、彼らが熱望する社会党中心の革新政権が誕生するよう水面下で奮闘していた。いざとなれば、鳩山の場合のように、パージという強権発動すら辞さないつもりであった。
翻って湛山はすでにその標的となっていた。湛山はGSのみならず、ESSでも危険人物と断定されていた。いわばブラックリストの筆頭人物だった。つまり、戦時補償打切り問題で抵抗し、終戦処理費の削減を要求するなどアメリカの円滑な占領行政を妨害する、本来淘汰されるべき守旧派タイプの政治指導者であり、また石橋財政は、石炭増産政策に示されるとおり、意図的にインフレを煽るものであり、野党や学界やジャーナリズムが非難するごとく、湛山は日本に混乱と害悪をもたらす張本人である、といったネガティブ・イメージが出来上がっていた。加えて3月、GSは政界の黒幕である辻が湛山を自由党副総裁に就かせるべく動いているとの情報を得た。湛山を一時も早く政界から抹殺しなければ、GHQの民主化政策が妨害されるどころか、GHQの権威は地に落ちる、とケーディスが考えたとしても不思議ではなかった。彼は局長のホイットニー (Courtney Whitney) 准将の了解の下に、日本語に堪能な日系二世のツカハラ(塚原太郎)中尉に対し、『新報』の調査を命じた。「追放該当」を既定方針とした上での調査命令であった(当時ケーディスの下で公職審査課長を務めたネイピア氏は筆者にこの事実を認めた)。
3月末に調査を終えたツカハラは、その報告書の中で、「好ましからざる」社説が『新報』に14篇、『オリエンタル・エコノミスト』に27篇、計41篇ある(この中で湛山執筆のものは5篇にすぎない)と指摘し、新報社が好戦的かつ超国家主義的方針を維持し、公職追放令(SCAPIN-548)に該当すると明らかにした。まさにハサミと糊で作り上げた捏造報告文書にすぎなかった。湛山は新報社社長としてこれら編集上の責任が問われるべきであり、公職追放令G項(その他の軍国主義者・超国家主義者)に該当する人物と判定された。こうして湛山追放の名目が出来上がったわけである。
この間GSは、1月に発足したばかりの中央公職適否審査委員会に対し、3月初旬、言論追放基準作成を命じていた。そこで委員会から委員長の松島鹿夫(元外務事務次官)、委員の加藤万寿男(のち共同通信社専務理事)、岩淵辰雄(政治評論家)らが小委員会を構成し、協議していた折、GSから唐突に『新報』の調査を命じられた(住本利男著『占領秘録』252頁)。
岩淵は次のように証言している。
「GSのケーディス大佐から、いきなり、東洋経済新報をどう思うか、至急に、返事しろといって来た。そこで委員の加藤万寿男君と、終連の政治部次長(副部長)の田中三男君で、手わけをして、十年間位の東洋経済新報とオリエンタル・エコノミストを取り寄せて、徹夜で調べた。加藤君の報告によると、『……調べて見て驚いたことには、(追放該当記事が)一つもない。東洋経済という雑誌は偉い雑誌だ。あの戦争中の十年間、よくも、自由主義の立場を守りつづけたものだ……』ということだった。ところが、こういう加藤君や、田中君の調査が、逆に、GSの御機嫌を損じた。『……そんな調査では駄目だ。君らがそういう考え方で、東洋経済を支持するなら、先ず君らから追放する……」と威嚇した。……この結果、われわれの小委員会は解散を命じられた」(『岩淵辰雄選集③』158~61頁)。
GSは今度は終連(終戦連絡中央事務局)政治部に対して『新報』の調査を命じた。どうしても『新報』を言論パージの枠の中に入れようとする意図が明確となった。 山田久就政治部長は吉田首相に対し、「石橋蔵相が危うい」旨伝えたが、吉田は何と蔵相の後任選考に入っていた。肝心の湛山は、自分が追放になるわけがないと信じきっており、GSの動向に一切構わなかった。4月下旬、総選挙と前後して、審査委員会では新しい小委員会が作られて、改めて言論パージの基準作りを開始し、5月初旬、全会一致で湛山を追放非該当、いわゆる「白」と判定した。一方GS内部では、4月末、湛山を追放該当、いわゆる「黒」とする20頁に及ぶ報告書がホイットニーに提出された。もはや日本側の審査委員会がGHQ側の意向を入れない以上、GS単独で実力行使する以外に方法はなかったのである。委員会側は日本政府の最高責任者である吉田が関与することを期待したが、吉田が期待通り動いた形跡はなかった。この時期に吉田は、佐藤尚武(元外相)や松野鶴平(元鉄道相)の助命を願う書簡をGHQ側に送付してはいたが、内閣閣僚である湛山を支援する書簡は見当らない。湛山は、「(吉田氏は)陰険といえば陰険ですね。ぼくは彼に悪感情をいだかぬし、内閣の一員であった時にはずい分助けたつもりでおる。けれども吉田さんとしては、ぼくが少し煙たかったでしょう」(同「湛山回顧⑥」119頁)とのちに述懐している。
5月8日、ホイットニーは吉田に対し、湛山の追放を命ずる指令文書を手交した。 その第二項には、「東洋経済新報の編集主幹兼社長として、彼はアジアにおける軍事的、経済的帝国主義を支持し、日本の枢軸国への追従を提唱し、西欧諸国との戦争の不可避を信じ、労働組合の抑圧を正当化し、日本国民への全体主義的支配を課すよう強いた論説上の責任がある」と記されていた。追放指令を知った湛山は、「まさかと思っていただけに驚きも大きかった。驚きはすぐに怒りにかわっていった。戦勝国の一方的な立場で、自分の意に従わぬ政治家を“追放”という凶器で葬り去ってしまう占領政策……私は、激しい憤りを、それこそ全身に感じた」と印象を述べている(同「今だから話そう④」24頁)。この事態に際して吉田は、湛山に追放を認めるよう説いた。湛山は、「こういう事実に違ったことがらで追放されるのは、僕の良心がゆるさない。内閣にとっても不名誉なことだと思う。だからこのまま黙っていない」と反論した。吉田は改めて湛山に了承を求め、湛山が再度拒否すると、吉田は「狂犬に噛まれたと思ってくれ」と述べたという(前掲『占領秘録』256~7頁)。5月17日の前掲『湛山日記――昭和20―22年』(200頁)には、「総理より電話あり9時外相官邸に訪 予のパーヂにつき諒解を求めらる 而かもGHQの真意は予の財政策に対する不満にあり 占領政策背反として巣鴨に送る代りに追放の挙に出でたりと云ふ、総理の言奇々怪々 拒絶す」とある。
しかし湛山は公職追放に処せられ、蔵相および衆議院議員の両地位を同時に失った。以降、湛山は1951年(同26)6月まで4年余の蟄居生活を強いられるのである。のちケーディスは筆者に対し、湛山が戦前軍部の行動を批判したリベラリストであるとは知らなかったと証言している。またESSの財政課長であったビープラット (Tristan Beplat) は、「湛山がいなくなってからやりやすくなった」(つまり以後の蔵相はイエスマンとなったという意味)と筆者に語っている。さてこの時期に国際情勢も新しい局面を迎えていた。ヨーロッパを舞台として冷戦が発生したのである。こうして世界は米ソ両陣営に分極化していき、政治的あるいは経済的自由が次第に制 限され、軍事的かつイデオロギー的対立が突出するようになる。そこでアメリカは日本の立場を旧敵国から新同盟国へと変更しはじめ、この観点から対日占領政策は懲罰的色彩を薄めていき、アジアの反共防波堤かつ工場とするため、日本の経済的自立を促す方向へと転じていく。それは経済的自由体制、平和協調体制を大前提とした湛山の戦後構想が急速に現実性を失うことを意味した。しかもアメリカに頼らず、自助努力による新生日本の建国をモットーとした彼の「自力更生論」の限界を露呈することでもあった。こうして湛山の日本再建構想は、内外両面で挫折を余儀なくされたわけである。

 


解説
いうまでもなく、占領軍は絶大な権限を有していた。マッカーサーは天皇を凌ぐ権威として日本に君臨した。その占領軍を相手に湛山が一歩も引かず、敗戦国とはいえ正当な理論をもって抵抗する姿に、国民世論が密かに拍手喝采しても不思議ではなかった。次第に世評は湛山を「気骨ある男」として英雄視しはじめた。政界でも湛山の株が上がりはじめた。

あらためて湛山の慧眼と勇気に敬意を表します。

 

……湛山は公職追放に処せられ、蔵相および衆議院議員の両地位を同時に失った。以降、湛山は1951年(同26)6月まで4年余の蟄居生活を強いられるのである。

さぞかし、無念だったことでしょう。

 


獅子風蓮