獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

増田弘『石橋湛山』を読む。(その24)

2024-04-27 01:32:12 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想には、私も賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

そこで、石橋湛山の人生と思想について、私なりの視点から調べてみました。

まずは、定番というべきこの本から。

増田弘『石橋湛山』(中公新書、1995.05)

目次)
□はじめに
□第1章 幼年・少年・青年期
□第2章 リベラリズムの高揚
□第3章 中国革命の躍動
□第4章 暗黒の時代
□第5章 日本再建の方途
■第6章 政権の中枢へ
□第7章 世界平和の実現を目指して
□おわりに


第6章 政権の中枢へ――1950年代
□1)朝鮮戦争勃発と第三次大戦防止論
■2)政界復帰と吉田政権打倒の闘争
□3)日中貿易促進論
□4)鳩山内閣通産大臣
□5)奇跡の石橋内閣... 哲人宰相の誕生

 


2)政界復帰と吉田政権打倒の闘争

政界へ復帰した湛山は、直ちに政治活動を再開した。かつての党首鳩山も湛山に2ヶ月遅れて追放解除となり、自由党に復党した。さらに三木武吉や河野一郎など実力のある政治家が続々と政界に復帰するに従い、党内では官僚出身政治家で固めた吉田派と、改めて主導権を握ろうとする党人主体の鳩山派との間で、政権授受をめぐる政治摩擦が生じた。湛山自身は追放中も鳩山と親密な関係を保ってきており、また追放時の経緯から吉田との感情的凝(しこ)りも消えておらず、それゆえ、湛山が鳩山派の一角を占めることは自然の成り行きであった。しかも湛山は経済財政の専門家であり、GHQと正面衝突するほどの闘志もあり、新報社時代に培った経済界との結びつき から政治資金の捻出力もあり、将来の有望株とみられていた(山浦貫一「ぬりかえられるか政界新地図」)。
ではパージ解除後の湛山の政治・外交に関する見解とはどのようなものであったか。
やはりその第一声は、経済復興問題と講和問題に重きが置かれていた。前者については、ドッジ・ラインに沿う通貨安定第一主義ではなく、むしろ生産復興第一主義に則って電力開発など積極的に推進する方針を採るべきであると持論を強調した(「経済復興の問題」『新報』6月30日号『全集⑭』)。後者については、政府の単独講和方式を是認しながらも、社会党など野党から全面講和、軍事基地の撤去、再軍備反対の声がある以上、条約批准前に総選挙を実施して、国民の総意を問うべきであると主張した。なお再軍備については、「残念ながら世界の現状から日本は相当の負担を覚悟せざるをえないが、ただし再軍備が日本経済を著しく圧迫し、国民生活を苦しめる結果となってはならない」と論じ、経済力に見合った漸増的な再軍備論を掲げた(論文「日本繁栄論」『ファイナンス・ダイジェスト』1952年1月号『全集⑭』)。また講和条約と日米安保条約とは「相即不離」のものであり、前者を受け入れて後者を否認することは、形式論理上可能であっても、実際上許されないとして、社会党らの方針を否定した。そして、「それは悲しむべきことであるにしても、世界の現状においては、日本国民の希望せざるをえない取り決めである」と論評した(「安保条約下の日本経済」『新報別冊10月15日号『全集⑭』)。
他面、湛山が危惧したのは、「日本の真の独立は可能か」という問題であった。湛山は「これは相当悲観的にならざるをえない。たとえば他人の世話になっている者は法律上平等であっても実際にはその人に頭が上がらない。国家関係も同じで、日本も独立国であっても米国への服従は免れない」と指摘した。ではどうすべきか。一つは、かつての日本の政治家や軍人が天皇の威光を借りて非道政治を行なったように、「米国ないし連合国と日本国民との中間に立つ日本政府が、前者の威光に名をかりて、実は、かれらの勝手に振舞い、あるいは、その無能をかくす口実とすること」を厳禁すべきであった。もう一つは、日本が一時も早く経済力を強め、アメリカと対等の交際を可能とすべきであった。「生産が豊かに、国民が富めば、国防も自力で行えるし、あえて他国に経済援助を求める要もない。かくて初めて国の独立は保てる」(前掲「安保条約下の日本経済」)と湛山は主張した。
以上のように、湛山は「対米自主独立」の見地から、吉田政権の「対米協調」路線を厳しく批判すると同時に、6年に及ぶアメリカの占領政策を歯に衣を着せずに批判した。とくに条約批准以前における総選挙実施論やドッジ・ライン廃止論などは、取りも直さず、以後の政争を導く政治的論点となった。こうして湛山は自由党内部の台風の眼となっていく。
さて講和条約と安保条約は、1952年(昭和27)4月28日に発効し、日本は6年8か月ぶりに独立を回復した。また台湾との間で日華平和条約も調印され、サンフランシスコ体制の骨格が形成された。半面、ワンマン体制と俗称された吉田首相のリーダーシップも、マッカーサーとGHQという後ろ盾を失い、政治的基盤が揺らぎはじめたが、それでも吉田は講和後も政権を担当する意欲を示した。これに対して鳩山側は、鳩山自身の健康が回復するとともに、再び吉田側に政権移譲を要求する政治行動を起こした。結局双方とも来るべき選挙で自派勢力を拡大することが目標となった。選挙近しの情報はすでに5月末には湛山にも入っており、鳩山派の選挙資金を調達するため、湛山は積極的に経済界へ働きかけた。また湛山の腹心石田博英は、湛山と同じく早稲田大学卒業のジャーナリスト出身政治家であり、将来の石橋派結成に向けて若手政治家との会合を頻繁に行なった。この頃から湛山の事務所のある東洋経済ビルが次第に鳩山派の拠点となっていった(石田博英著『私の政界昭和史』72頁)。ただし、石橋派の陣容といっても、石田のほか島村一郎、佐藤虎次郎、佐々木英世、辻政信の5人程度にすぎなかった(中島政希「石橋政権と石橋派――石田博英の回想を中心として」)。

一方、湛山は精力的に地方遊説を開始し、7月、岐阜で「政綱政策試案」を発表した。その骨子とは、まず外交方針として、①国連を強化する、②冷戦を調整する、③秘密外交を廃止する、④日米英三国の協調関係を維持する、⑤東アジアとの親善を促進することを上げ、とくに日中関係の改善を唱えた。軍事方針としては、①新憲法第九条を国民の信条とする、②世界の現況により軍備を保持する、③日米安保条約を総合的安保条約へと進展させる、④憲法第九条を修正する、とした。経済方針に関しては、①自由貿易主義に立脚した国際貿易を拡張する、②産業発展のため金融機関を整備する、③安易な外資導入には反対するなどを明らかにした。やはり政治・経済・安全保障などいずれの分野でも対米依存体制からの早期脱却を志向しており、それ自体、吉田政権に挑戦するものであった。とはいえ、憲法第九条を国民の信条としつつ、九条を修正するとの方針は理解し難く、矛盾を含んでいた。これは一つには、湛山が鳩山派のスポークスマンとして、自己の見解と派全体の見解とを併記せざるをえなかったのであろう。
このような鳩山側の攻勢に対して吉田側は、8月、いわゆる「抜き打ち解散」をもって応じた。しかも選挙期間中の9月末、反党活動を理由として、湛山と河野を自由党から除名する強硬措置を取った。湛山の除名自体、湛山の鳩山派に占める地位がいかばかりかを端的に物語っていた。
10月、湛山は党籍を失いながらも当選を果たし、1947年(同22)5月に公職追放で失った国会の議席を5年ぶりに回復できた。そして三木、河野とともに「自由党の民主化」を掲げ、吉田政権打倒に邁進した。また野党の改進党、社会党とも連携しながら吉田内閣を牽制した。その結果、12月には湛山と河野の除名取消しを実現させた。翌53年(同28)1月の「湛山日記」(『自由思想』第八号所収)には、「要するに吉田氏が引退する外途なし」(40頁)、「吉田総理の演説は、いかにかれが国会を無視せるかを表示せるもの」(42頁)等々、吉田の政治手法を糾弾する記述が見られる。ついに3月、両勢力の対立は険悪化し、湛山は鳩山、三木、河野などとともに自由党から脱党した。その結果、国会ではこれら脱党派と野党との共闘が生じて、吉田内閣不信任案が成立するに至った。

ところが吉田側は再び反撃に転じた。吉田首相は国会の解散に踏み切ったのである。いわゆる「バカヤロー解散」である。わずか半年にも満たない状況で国政選挙が二度行なわれるという異常事態となった。そこで脱党派22名は「分党派自由党」(いわゆる分自党、鳩山自由党)を結成して、鳩山総裁、三木幹事長、石橋政策審議会長の布陣を敷き、突発的な総選挙に臨んだ。湛山は分自党の大黒柱として、政策、遊説といった表の党活動はもちろん、資金集めなど裏方でも中心的役割を担った(石田博英著『石橋政権・71日』86頁)。しかし4月に実施された第26回総選挙では、自由党199、改進党76、左派社会党72、右派社会党66、分自党35の各議席に終わり、鳩山自由党の躍進は実現しなかった。これは湛山らにとって大きな痛手であった。やむなく11月、鳩山や湛山は、三木、河野ら8名を残して、自由党に復党せざるをえなくなった。湛山にとってはまさに吉田側への降伏であり、屈辱の復党であった。しかもこのときの経緯が、味方同士であった湛山と三木・河野間に感情的凝りさえ残すことになった。
しかし復党後の湛山は、1954年(同29)3月から保守新党運動が開始されると、岸信介と協力しつつ、次第にこの運動を反吉田の新党運動へと導いていった。7月、湛山と岸は、改進党の芦田と手を組んで「新党準備会」を発足させた。その際に作成された「新党の使命と政策大綱」は、前文で、「内は、占領下の惰性と弊風を改め、民生を向上し、健全な社会を建設し、他力依存を脱却して自立経済を確立し、自力更生・自主自衛の独立国家体制を整ふると共に、外は、自由主義国家群と相携へてアジア諸国との善隣友好と経済提携を回復し、進んで両陣営の相剋を緩和して東亜の安定と世界の平和に寄与せんとする」と謳い、また本文での緊急政策大綱は、
「(5)憲法の改正と占領下の諸制度の再検討(憲法を初め占領下の諸制度、諸政策を再検討し、真に我国の伝統と民情習俗に適応せる独自の諸制度を整備し独立国家として国民的矜持を昂揚する)」、
「(6)防衛体制の確立(概ね3ヶ年に陸上兵力に就ては駐留軍撤退を可能ならしむる自衛体制を整備すると共に陸海空軍については国力に応じた少数精鋭の民主的自衛軍確立を図る)」ことを明示した。ここには湛山の年来の政治・外交思想が色濃く滲み出ていた。

10月、新党運動が実は反吉田の鳩山新党結成を目指すことが判明した。この事態に驚いた自由党執行部は11月上旬、首謀者である湛山と岸の除名を決定した。湛山にとっては2度目の除名であった。ついに23日、自由党から鳩山派と岸派が脱党、翌24日には日比谷公会堂で「日本民主党」結党式が挙行された。鳩山総裁、重光葵副総裁、岸幹事長、三木総務会長、松村謙三政調会長、石橋、芦田、大麻唯男3名が最高委員という指導体制であった。12月七日、最後まで解散に固執していた吉田首相も、やむなく退陣を決意せざるをえなかった。10日、鳩山内閣が成立。ここに湛山らの政権獲得を目指した長い闘争は幕を閉じたのである。

 


解説
あらためて湛山の慧眼に敬意を表します。

また、単なる理想主義者でもなく、己の信じる政治信念を貫くためには政治闘争も辞さない、強い意志を持っておられた方なのですね。

 


獅子風蓮