獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

対話ブログ・ステージⅡ:論客ウトロさん登場(1)

2021-11-24 01:35:01 | 対話ブログ

■の文章は、シニフィエさんの対話ブログからの引用です。

●の文章は、それについたコメントの引用です。

以前のスレッド「自分の信じているものは、」に引き続いて、論客のウトロさんが登場します。


■日蓮本仏論について思うこと     投稿日: 2013年8月14日

さて、芸術と宗教という視点をとっかかりとして、創価学会の矛盾を考えてきたわけですが、やはり自分たちの信仰が正しくて、その他は間違っているという考え方は、芸術そのものの存在を考えることによって簡単に矛盾点が露呈されてしまうということが確認されたように思います。
創価学会は他の宗教を否定することによって信者の意識の団結をはかり、信者を組織のいいなりにするために、他宗を排他的にあつかう日蓮正宗の教義を都合よく利用してきたと考えられます。表向きは庶民が平和と文化を推進するリーダシップをとることによって世界中の人々に幸せをもたらすなどと掲げてはいますが、組織がやっていることは、あくまで信者に対する強制的な労働と散財でしかありません。それを宗教を隠れ蓑にして信者を精神的にしばりあげ、一生を組織のために尽くさせるという恐ろしい団体として巨大化していきました。しかし急速なネット社会の広がりによって、これまでとは比べ物なならない情報が世界中に行き渡るようになり、創価学会の信者の中にも、組織の矛盾に気がつく者が急激に増えました。もはやその流れは止めようがありません。これまで隠しに隠していた創価学会の闇の部分がネットによって明らかになりつつあります。ささやかではありますが、このブログもその中の動きのひとつだと言えるでしょう。
芸術と宗教について考えていくなかで、私のなかに新たな疑問が出てきました。それは日蓮本仏論です。世界にあまたある仏教の宗派の中で、釈迦ではなく日蓮を本仏とする宗派は、創価学会と日蓮正宗だけのようです。ただし創価学会は単に日蓮正宗の教義を利用しただけの詐欺団体ですから、宗派とはいえません。ですから、日蓮が本仏であるとするのは世界中でも日蓮正宗だけということになります。もちろん、細かく言えば例外もあるのかもしれませんが、総じて釈迦以外の人物を人類救済の仏としている仏教は、やはり日蓮正宗だけであるということです。そう考えると日蓮本仏論は世界でも珍しいものすごくマイノリティな宗派であるということです。たまたま創価学会によって一時は信者数がふくれあがりましたが、現在は創価学会を破門することで、本来の日蓮系宗派のひとつとして存在しています。
そこで思ったのは、自分はたったひとつの、それも全体からみればそうとう特殊な宗派の教義に縛られていたのだろうということです。日蓮正宗以外の日蓮宗もみな釈迦を本仏としています。だからといって私は日蓮宗日蓮正宗がどうのということではありません。何度も言うように日蓮正宗を否定する気持ちは微塵もありません。しかし、いったんカルト団体のMCから脱却した今、少なくともこれから自分が考える宗教とは、仏教なら仏教全体を見て考えなくてはいけないのではないかと思いました。また仏教を見るのなら、少なくとも世界三大宗教であるキリスト教やイスラム教についても知る必要があるだろうと。そしてそれを知りたいと思うようになりました。創価学会の活動をしていたときは、他宗はすべて劣っており、創価思想の高みにいれば、すべての宗教が見渡せるという馬鹿げた指導を鵜呑みにしていました。そして創価の欺瞞に気がついたとき、私は仏教についてすら何も知らなかったことに驚かされました。さらに他の宗教について知ること自体に嫌悪感さえ覚えるほどMCされていたんだということに気がついたのです。
創価学会から抜け出すことができて、世界の宗教芸術をなんの偏見もなく見ることができるようになりました。素直に他の宗教の芸術を受け入れることができるようになりました。それは普通の人にとってはあたりまえのことだったのですが、生まれてこのかた、なんと50年ものあいだ、否応無しに宗教芸術をなんらかの偏見と嫌悪感をもってしか見ることのできなかった自分を恥じました。芸術に携わる職業でありながら、その人類の遺産である芸術作品にまともに接することができなかったのです。そうさせてきた創価学会のどこが正しいと言えるのでしょう。創価学会の掲げる文化も平和もまったくうわべだけの偽物です。会員を欺くためだけのフェイクでしかありません。MCのための道具でしかありません。それにはやく気づいてほしい。私のように人生の終盤にさしかかって気づいては遅すぎます。若い学会員には、はやく創価の真実に気づいて、自分の本当の人生を取り戻してほしいと思います。


●祥蘭(2013年8月16日 09:42)
芸術と宗教のお話、皆さんのご意見、興味深く拝見いたしました。
神話に基づいて描かれた絵画を見る時、その背景はなにもわからなくても、ただ見つめているだけで心が穏やかになったり
心洗われるような気持になった事があります。 
でも、創価で活動家をしていた頃の私はそれらの宗教芸術を「邪宗を背景としている」と見た事はありませんでした。
ただ素晴らしいな、素敵だなと、テーマや背景を深く掘り下げずにただ「見た目の感想・上っ面」で終わっていたんです。
他宗は全て劣っている・取り入れてはならないもの・世界に一つだけの正しい教えに出会っているのだから、
低いものの歴史はわざわざ知る必要が無い、というマインドコントロールで培われた潜在意識がそうさせていたのだと、今は解ります。
また日本古来の神社神道からなる神事についても、同じ認識でした。
外道だからと創価では切り捨てられ、敢えて知ろうとしませんでしたが、普段当たり前に使っている言葉や習慣なども、始祖祭祀に
はじまる事が多いと覚醒後に歴史の本を読んで知りました。
たとえば、祭りにおける考察の中で、お祭りのとき祭壇に供えた食べ物をあとでお下がりとして皆で頂く事に絡み
大和言葉のタベモノ(食べ物)が「賜ぶ物(タブモノ)=神々からの賜り物」からきていると知った時は、農耕民族である日本人が
自然からの恵みで生をうけてきたこと・そこに神の存在は不可欠で、崇敬の念をもって信仰されてきたことがよく理解できました。
宮中祭祀は国の平安と豊穣を願う神事で、それが現代にも受け継がれている事は、立派な「日本の文化」であって、
「邪宗」や「低い教え」と切り捨て、会員にそれらから目をそむけさせ・興味を殺いで行こうとすることのどこが「文化運動」なのか
さっぱり解りません。
創価の教義は日本人としての矜持を殺いで行く教えばかりだったなと、覚醒した今は心底がっかりさせられています。

話はそれますが、家の近くにキリスト教の教会があります。ある日、子供が外から戻ってきて「お友達と教会で遊んできた」というので
ビックリしました(覚醒後の話です)。遊んできたってどういう事?と尋ねると、その教会は信者でなくてもだれでも出入りが自由で
子供のための部屋(絵本やおもちゃや、クレヨンなどおいてあるそうです)もあり、そこで遊んできたそうです。
無理やり礼拝をさせられたのか?牧師様のお話はあったのか?と尋ねてみたらまったくそのような事も無くて、公園が減ったり・各家庭の行き来が
昔より難しくなって、子供の遊び場が減った事を問題に思った牧師さんの好意・慈善であったと後日お友達のお母様から聞きました。
そこで気づきましたが、神社も出入りはだいたい自由。誰人にも門戸を広げています。
創価の会館のように、外部の人間が来る日にカメラ&録音機材のチェックなんてしないのです。
また、これも覚醒後ですが、神社神道を信仰する方から「他の宗教を信じている人に対して、低い教えだから捨てろと言ったり、
自分の宗派に”入会”しろなんて、神様にそんな教えは無い」と言われた時、己の過去を振り返り心が痛みました。 
入会なんて形式ばったものもなくて、自分の心が神様を求めた時に神社に詣でればそれでいいんだそうです。
真に開かれた宗教とは、そういったものかもしれないと考えました。
 この教え以外のすべては間違っている・そう気づいた本人だけ「自己完結」でやってくれるならまだしも、低い教えを信じている人は
不幸だから、その低い教え・誤った信仰を捨てさせて入会へ導け(折伏)・それが幸せなんだ、平和への連帯なのだと教え込まれた
創価の教義がいかに異質で「信教の自由」を無視したものなのか、ちょっと一般社会に出てみればわかる事です。
といいつつ私も40年以上わからなかったんですけどね。

●signifie
2013年8月16日 21:27
白バラ通信によれば、池田氏は手の施しようのない脳腫瘍とのこと。老齢なので手術ができないのと、若い人より腫瘍が大きくなる速度が遅いのもあるでしょうが、いずれにせよ会員には一切知らされないまま、何年も経っているわけです。86歳とのことですから、そのような病気になるのも不思議ではないし、そのような体調で巨大な組織の指揮をとったり、執筆活動をするというのも可哀相ですよね。最高幹部はなぜ池田氏の病状を会員に伝えないのか。なぜ会員は会長の病状を知ろうとしないのか。会員にとっては親以上の存在だと日頃から言ってるにもかかわらず、なぜ何年も顔すら見せないことに何の不満ももたず、疑いもせずいられるのか。ときどき聖教新聞に載ってくる洗濯してよれよれになったぬいぐるみのような写真で「先生はお元気です」となぜ言いきれるのか。それになぜ聖教新聞に載っている池田氏の写真は過去の元気に太っている頃の写真ばかりなのか。まず会員が何年も池田氏の声すら聞けない状況に、組織の上層部はなにひとつ答えていません。自分の親が突然何の連絡もなしに音信不通になったら、普通の子どもなら心配しますよね。どうしているんだろうって心配するのがあたりまえだと思います。入ってくるのは執筆文やメッセージばかり。姿も見えなければ声も聞こえない。それもひと月やふた月ではなく、もう2年半になろうとしています。最高幹部がそのように会長を表に出さないようにしているのでしょうから、私はそのことを一般の学会員に説明してほしいと言っているのではなくて、学会員がその状況をなぜ不自然に思わないのかということを学会員の口から聞きたいのです。なぜ人生の師と仰ぐ池田氏が何年もまったく姿を現わさなくて、それでも病気かもしれないなどと心配しないでいれるのかを聞きたいですね。そのことになぜ不自然さを感じないで居続けられるのかを聞きたいです。ほんとに師弟の絆で結ばれていると言うのなら、弟子は師匠のことが心配で夜も眠れないのが本当ではないのでしょうか。
創価学会の現役活動家であるexcommunicateさん、お盆も終りましたことですし、そろそろその辺りのことを聞かせていただけると嬉しいです。
もし、かまわなければ日蓮本仏論についても、日蓮正宗とたもとを分つ創価学会の教義についてexcommunicateさんのお考えを聞かせていただけると嬉しいです。もし荷が重いとなれば、あなたの組織の上の方に登場していただいてもかまいませんが、excommunicateさんがこの状況を話した時点でシャットアウトされるでしょうけどね。それほどexcommunicateさんは創価学会員としては珍しいスタンスにいらっしゃいます。すこしだけ世間一般の心も持ち合わせていらっしゃるのではないかと思われます。どうかここでの対話を続けていただければと思います。気長にお待ちしていますよ。(^^)

●ウトロ(2013年8月17日 08:56)
どんな偉大な人であっても時代の制約を受けるのは仕方のないことです。
日蓮は民衆救済への高い志を持ち、深い学識をそなえた尊敬すべき仏教僧だったと思うのです。
しかし、今の仏教学や文献学の研究成果からみると、日蓮の仏教理解には誤りがあったことは認めるべきでしょう。

日蓮は法華経仏説の立場ですが、これは当時の常識から言えば間違いではなかった。
しかし今となっては、法華経は釈迦入滅の数百年後に成立したことは常識となっています。
法華経には、それまで伝承されてきた釈迦の思想が反映されている部分もあるでしょうが、法華経を創作したグループ独自の主張も述べられているのでしょう。

また、法華経を漢訳した鳩摩羅什の独自の考えも反映されているようです。
たとえば、有名な「諸法実相」はサンスクリット語の原本には記述がなく、鳩摩羅什が付け加えたもののようです。
このようなことを考えると、法華経に説かれたことは絶対である、とは言えないと思うのです。

日蓮は文証至上主義者だったと私は思っています。
「私の言葉にはあらず」と言って、さまざまな経・釈・論を引用しながら、それを根拠に自説を展開しています。
これは、きわめて理性的、科学的な態度ではないでしょうか。

であるならば、日蓮門下を名乗る人たちも、日蓮のこのような態度を見習うべきでしょう。
たとえ日蓮の所説であってもそれを絶対視するのではなく、いまの仏教学や文献学の成果をふまえて見直すべき点は再検討する。
これが、理性的、科学的な態度だとおもうのです。

もし日蓮が今の時代に生まれていたら、法華経をはじめとした多くの仏典について、最新の文献学や仏教学の知見にもとずいて再評価したうえで自説を述べるのではないかと思います。

日蓮は法華経を誹謗すると地獄に堕ちると言っていますが、これは法華経の譬喩品に書かれている「若人信ぜずして此の経を毀謗せば、即ち一切世間の仏種を断ぜん、其の人命終して阿鼻獄に入らん」を根拠にしています。
しかしながら、今となってはこれは釈尊の思想とはほど遠いものであろうと思います。
私が勉強した範囲では、釈尊は人を脅すような「罰論」や「地獄論」のようなことは言っていないようです。

ごく大雑把に言ってしまえば、釈尊の説いたものが仏教だとすると、今の日本で仏教と呼ばれているものの多くは仏教ではない。
このようなことが言えるようです。

中途半端な書き込みで申し訳ありませんが、長くなってしまったのでこれで終わります。

なお、日蓮本仏論については以下のサイトが参考になるかと思います。

http://senmon.fateback.com/soukagakkai/shukyou/dpj_honhutsu.html


●ウトロ(2013年8月17日 10:02)
シニフィエさん、連投をお許しください。

こちらでコメントをされている法華講の方や学会の活動家の方は、自分たちの信仰が唯一絶対だとの確信をお持ちのようですね。
以前にも投稿させていただきましたが、日蓮系の教団は分派を繰り返し、多くの門流に分かれています。
その中で、法華講や学会は日興門流の中の大石寺圏にあるのですが、大石寺流の日蓮信仰が絶対だとの根拠を、ここで示して頂きたいと希望します。

ある法華講の方は、大石寺の信仰は750年間、日蓮の時代と寸分違わず続いていると主張します。
本当にそのように言えるのでしょうか?

たとえば、日蓮がどのように題目をあげていたのか。
「なんみょうほうれんげきょう」と唱えていたのか、それとも「なむみょうほうれんげきょう」と唱えていたのか。
それすら伝わっていないのが実状でしょう。

ある人からうかがった話ですが、さまざまな門流に「相伝書」と呼ばれるものが存在するそうです。
この「相伝書」が伝わっていく過程で、さまざまな人たちがいろんなことを書き加えてしまい、どこまでがオリジナルの「相伝書」なのか良くわからないようです。

けっきょく、日蓮の所説が伝承されていく中で、伝言ゲームのようなことも起こっているでしょう。
このようなことを考えると、日蓮の教えがどの程度の正確さで今に伝わっているのかは、はなはだ疑問ですね。

●excommunicate
2013年8月17日 11:15
家族と共に、夏季休暇を満喫していました。実際は19日から出勤なので後2日の休暇がありますが、田舎へ帰り、マイナスイオンに癒されながら、清流で子供たちと水遊びし、親戚が釣った鮎の塩焼きに舌鼓をしつつ、その他の田舎料理を満喫しながら、多くの親族と酒を交わしました。ある日は麻雀にふけるなどしていました。ちなみに麻雀の腕はそこそこ自身がある方なので、全局勝利したのは言うまでもありません(笑)。

14日は親族が35人も一同に集まりました。ちなみにほとんど学会員ではありません。が、私の結婚式は学会の会館でやりましたので、たくさんの親戚が来てくれました。披露宴は有名な平安閣で行いました。当日、池田先生からの祝福の御伝言も頂き、夫婦箸の激励も頂きました。あれから15年の歳月が流れます。

親戚のご自宅へも伺う機会があり、浄土真宗の家ですが、仏壇にお供え物をさせて頂きました。また盆ですので、その親戚のお墓詣りもさせて頂きまして、懇ろに読経唱題をさせて頂きました。ちなみにそのお墓も浄土真宗のお墓です。

様々なコメントを一気に拝読させて頂きました。私へのご質問もあり、どれからご回答申し上げたほうがいいか、大変悩んでおりますが、順不同で大変申し訳ございませんけれども、愚見を申し上げたいと思います。

まず、裁判についてですが、聖教新聞や創価新聞に連戦連勝などという記載は見た記憶がありませんが(随分昔に、選挙絡みの記載ではあったかもしれませんが)、そう吹聴しているのが宗門側なのではないでしょうか。

確かに勝訴の記事は創価新報で見たことがありますし、ご指摘の芸者写真裁判の一審敗訴の件は聖教新聞にも記載されていましたので記憶は鮮明です。結果、この訴訟は学会勝訴というか、原告(宗門)側の控訴棄却で終わっているはずですが、私の記憶は間違っていますでしょうか。リンク先のWikipediaでもそう記載されているようですが。

あと、その他リンク先の「百禍繚乱」というおどおどしいサイトですが、これは宗門関係者がよく引用する有名なサイトですので存知あげていますし、私が気になる学会攻撃と感じるサイトのひとつでもありますので、特段、コメントするものではありません。

但し、その裁判記録についてですが、ひとつひとつの裁判の中身を知る労力と時間はありませんので、可能でしたら訴状内容と判決文を全展開して頂ければ助かります。

私の主観論を申し上げますと、学会が敗訴したという裁判は、大概は寺の所有権や代表権、遺骨の管理責任などが争点になっていると思いますし、どちらかが裁判を起こしたかわかりませんが、学会側から起した裁判の多くは、その学会員の義憤、つまりやむに已まれぬ裁判だったりするのではないでしょうか。それは、例えば学会が寄進した寺に居座り、学会攻撃をする坊主を見て、「我々の御供養で寄進した寺だから、寺から出ていけ」という裁判だったりします。逆に宗門側勝訴の裁判も、学会側についた住職に対して、寺から出ていけという内容であったり。

いずれにしても、学会が寄進した寺といえども、所有権は宗門側に移行しているワケなので、勝訴するのは難しいでしょうね。

正本堂に関わる裁判は特にその典型例と思います。当時、学会が供養した額は355億円、法華講の供養額は3億182万円、僧侶及び寺族は1億5787万円ということからしますと、ほとんどが学会の供養で建てられた建物でありました。しかも、高度経済成長期といえども、学会は昔から貧乏人と病人の集まりと揶揄されるような、その恩恵に薄い層の集まりです。その学会員が爪に火をともす思いで日蓮正宗に捧げた空前の御供養で建設された建物が、たかだか20年で取り壊されたという現実。

当時の新卒の初任給は約5万円くらいなので、現在の貨幣価値にしますと、1000億以上の御供養です。

私も両親から聞いていましたし、祖父母からも当時の御供養の闘いを聞きました。祖父母も両親もお山のためなら、ということで、財産のほとんどを御供養に回したそうです。

この正本堂はかかった額もさることながら、建築家・横山公男氏の設計で、その大客殿は日本の建築学会賞を受賞していました。池田先生のご案内で、小林秀雄氏や井上靖氏、松下幸之助氏などの識者や著名人が数多く訪れ、誉める人は多かった。それを50億円もかけて解体しました。反対したのは学会員だけではありません。横山公男氏をはじめとする多くの著名な建築家も「そんなばかなことはやめなさい」と声をあげました。しかし、宗門はそれを無視して、学会憎しのあてつけに解体しました。「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」を地でいった話です。もっともやったのは坊主自身なんでしょうけれど・・・

さて、私が気になる他のサイト、つまり宗門側が学会攻撃に躍起になっているものですが、一部ですが以下のものがあります。

http://www.nichirenshoshu.or.jp/page/jpn/p-deta/sokagakkai/soka_2j.htm
http://emyo.jp/
toyoda.tv

補足ですが、私は、内部のメンバーに対して、ネットのアンチ記事を見ないようにという話をしたことがありませんし、上の幹部からそういった打ち出しも聞いたこともありません。仮に誰かが言った話であっても、見るなと言われても逆に見たくなるというのが人間の性ではないでしょうか。つまり、見るなと言われてもなんら強制力なんてありっこないです。

また、古くは藤原弘達著の『創価学会を斬る』から始まり、山崎正友・原島崇著の「懺悔滅罪」、最近であれば矢野氏の『乱脈経理』など、学会のダークサイド(?)ともいうべきネタ本が数限りなく出版され、熟読いたしました。

かれこれ20年前になると思いますが、当時の週刊誌に、福島源次郎という元副会長が脱会した理由を長文にわたって掲載していました。父が購入して、仏間に置いてあったのを読んだ記憶が今でも鮮明です。特に記憶に残っているのが、当時、福島氏が便秘で苦しんでいた時に、御本尊に「池田大作と闘います!」と祈ったら、一気に詰まっていたものが排便され、功徳を頂いたという記載と、青年部当時に池田先生と銭湯に入り、先生に背中を流してもらった際に、「福島君、君が頼りだよ」と激励されて感動したという記載でしょうか。

つまり、何十年も前から古くから週刊誌などで学会に対するネガティブキャンペーンが展開されていて、今は、ネットにその舞台が移動しただけと思うのが、私の率直な感想です。

「乱脈経理」の内容も、前述した藤原弘達著の内容や「懺悔滅罪」よりも、さらに迫真の記載があるだけです。また、ここまでハッキリ脱税の告発をしておきながら、日本で一番冷徹で、優秀な官僚が集まる国税局の査察が入らないワケがありませんし、こんな違法集団が支援する政党が政権にいるならば、国会でも野党が厳しく問いただすのではないでしょうか。それが無いのは、関係者から見ると明らかに詭弁であり、まともに取り合うような程度の内容ではないからです。

さて、このブログに登場される元学会員の方のご意見に対してですが、今に始まったことではありませんけれども、私がいつも気になることは、脱会の理由が、「池田先生の指導のここがおかしい」という角度がさっぱりなくて、大抵が組織内の軋轢に端を発して、その裏付けを取るかのように、前述した脱会者の告発本や、ネットのアンチ記事にすがり、結末として、学会はオカシイという理屈になっているということです。

創価学会は、血もつながっていない、仕事も違う、年齢も性別も、趣味も感じ方も考え方も、育った家庭環境も違う人たちの巨大な集まりです。それが、日蓮仏法を根本とした代々会長、特に池田先生の卓越した指導によって繋がっています。だから師弟不二を説いているわけで、その日蓮仏法を行ずるにあたっての先生の指導の「ここが間違っているから脱会する」ということなら諦めもつきますが、私が知る限りでは、それが理由となっていない。

「組織内にこういう嫌な経験をした、だから学会が嫌いになった、その裏付けにしたのがネットのこの記事だ」という理由が多いのではないでしょうか。

学会には光と闇があると言われるならば、その闇の部分が、組織内の人間関係のもつれでしょう。財務にしたって、選挙活動にしたって、聖教啓蒙にしたって、それを打ち出す幹部の素質が問題です。みんなが納得して活動しているのか、嫌々やらされていないか、どこに不満があり、どうしたらみんなが嬉々として活動に参加して頂けるのか、一人で悩んでいる会員さんはいないか、悶々としている方はいないか等々、しっかりアンテナを張って取り組んでいかないといけません。

学会とは関係のない一般例でも、血がつながっている家族の間ですら、言葉の使い方や意見の相違で平気で争ったり、事件になったりする時代です。

いわんや、赤の他人同士の集まりが創価学会です。そこの丁寧さを欠いた打ち出しや、指導をする幹部がいたら、それが問題だと思います。池田先生ならどのようにされるのか、常に師匠と呼吸を合わすことが大事であるはずが、そうせずして、我流で身勝手に進めようとする幹部がると、そこに所属している会員は大変な苦痛を味わうでしょう。それが、学会への不信となり、脱会に繋がっていきます。

私は、会社でも上司と部下の関係で、とても苦労します。管理職でもありますから、多くの部下を持っています。通り一辺倒に結果を出すことを強制すれば、部下の心は離れていきます。なぜ、これを目標とするのか、そして、それを達成するためには、どうしたらいいのか、皆の意見を吸い上げつつ、全員野球で心をひとつにすることを心がけています。利害関係がある会社でもそうですから、何もない学会では、更なる丁寧さが求められるのは論を待ちません。

繰り返しますが、脱会される方は、先生が残された膨大な指導にはほとんど触れず、それについての意見もほとんどない。あるとしたら、よく宗門側が取り上げる「御法主上人を批判した」という盗聴された不鮮明なテープの内容くらいで、過去から現在に至るまで残されている、会員に対する莫大な指導について、何故、直視しないのか不思議でなりません。

そうではなくて、先生の指導は正しいが、他のオカシイところが一番肝心と思っているのでしょうか。そのオカシイところを先生が発信されたということでしょうか。それは、真ん中の幹部の発信(元学会の告発など含む)ではないのでしょうか。一度、御教示頂きたいものです。

だから、私は、古くから現在まで発刊され続ける告発本や、ネットのアンチ記事の内容については、御書にある三類の強敵「俗衆増上慢」程度にしか感じないし、以下の御書と池田先生の指導の方がはるかに説得力があります。

「兄弟抄」(御書P1087)

【本文】
 されば天台大師の摩訶止観と申す文は天台一期の大事一代聖教の肝心ぞかし(中略)其の上摩訶止観の第五の巻の一念三千は今一重立ち入たる法門ぞかし、此の法門を申すには必ず魔出来すべし魔競はずは正法と知るべからず、第五の巻に云く「行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競い起る乃至随う可らず畏る可らず之に随えば将に人をして悪道に向わしむ之を畏れば正法を修することを妨ぐ」等云云、此の釈は日蓮が身に当るのみならず門家の明鏡なり謹んで習い伝えて未来の資糧とせよ。

【通解】
 さて、天台大師の摩訶止観という書は、天台の生涯における大事であり、釈尊一代の教えの肝要を述べたものである。(中略)摩訶止観の第五巻に説かれる一念三千の法門は、もう一重深く立ち入った法門である。この法門を説く時には、必ず魔が現れるのである。魔が競い起こらないならば、正法であると知ることができない。
 摩訶止観の第五巻には「仏法の修行が進み、その理解が深まれば、三障四魔が入り乱れて競い起こってくる。・・・だが、この三障四魔に、決して随ってはならない。畏れてはならない。これに随うならば、必ず人を悪道に向かわせる。これを畏れるならば、正法を修行することを妨げる」とある。この摩訶止観の釈は、日蓮の身に当てはまるばかりではなく、わが一門の明鏡である。謹んで習い伝え、未来にわたる糧とすべきである。

【先生の指導】
 まず、「行解既に勤めぬれば」とあります。これは、経典に対する理解が深まり、その理解に基づいての修行が整った時、という意味です。すなわち、いよいよ生命変革のための本格的な修行に入る時だからこそ、三障四魔が競い起こる。私たちの信仰で言えば、「行学の二道」に励み、「いざ前進」の時に必ず三障四魔が競い起こる、という意味になります。
大聖人は、凡夫から仏への境目の時に三障四魔が起こると言われています。
次に、三障四魔は「紛然として競い起こる」とあります。「紛然」とは、入り乱れているさま、ごたごたしているという意味です。まさしく「紛然として競い起こる」とは、三障四魔が、入り交じって争うように出てくるさまであるといえましょう。三障四魔は、不意を突き、こわがらせ、誘惑し、嫌気を誘い、疲れさせ、油断させる等、紛然たる策動を働かせてくる。
この三障四魔に立ち向かう信心の要諦を、天台大師は明快に2点、挙げています。
それが「随う可らず」、そして「畏る可らず」です。魔に随えば、その人は悪道に引き落とされてしまう。魔を畏れれば、正法を修行する妨げとなってしまう。
結論を言えば、「智慧」と「勇気」が勝利への根幹です。魔に従わず、魔を魔と見破る「智慧」。魔を恐れず、魔に断固立ち向っていく「勇気」。要するに、南無妙法蓮華経の唱題行が、魔を破る「智慧」と「勇気」の源泉となるのです。妙法の力用が、「無明」を即「仏性」へ転じ、「難来るを以って安楽」(750㌻)という境涯を開いていくからです。

以上です。

大変、長くなりました。もし、ここまでお読み頂けたのでしたら、貴重なお時間をこんな拙文をお読み頂いたことに心から感謝申し上げます。
皆様におかれましては、酷暑が続いておりますので、健康には十分御留意されまして、充実した日々をお過ごしください。
ありがとうございます。


解説
久々に、excommunicateさんが創価学会擁護の論陣を張っていますが、シニフィエさんや他の参加者の反論にあいます。
excommunicateさんとしては、創価学会の公式見解しか言えないので苦しそうです。

論客ウトロさんのコメント、共感できます。

獅子風蓮