獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

対話ブログ・ステージⅡ:木花さん登場(3)

2021-11-11 04:15:27 | 対話ブログ

■の文章は、シニフィエさんの対話ブログからの引用です。

●の文章は、それについたコメントの引用です。


■芸術が私を救ってくれた        投稿日: 2013年7月25日

私の場合、二世であるにもかかわらず、学会員としてはある意味劣等生でしたから、こうして気づくことができたし、かろうじて自我を壊してしまわずにいれるのだと思います。それともうひとつは若いころから芸術の創作活動にたずさわってきたからだと思います。日蓮の教えに従うならば、世界遺産の多くが人々を不幸に陥れる邪教の産物になるからです。私の友人に学会員でプロの彫刻家がいます。彼は日本の仏像彫刻のレベルの高さを知りながら、それがなぜ邪教なのかということに答えを見出せずに、いつも悩んでいました。他にも芸術の価値と日蓮の教義が相容れないことや、仏像の美しさを認めることが法謗になるんじゃないかと、ビクビクしていました。あげくうつ病になってしまいました。
私も若いころは他宗のお寺に行くのは気味が悪かったし、神社の鳥居をくぐるのもいやでした。いま考えればバカみたいですが、そうやって生まれたときから借り物の自我によって大きくなってきたのだと思います。幸い、私が芸術に目覚めたものだから、しだいに学会と芸術の整合性がとれない疑問が大きくなっていったように思います。
たとえばグレゴリオ聖歌やヨハン・セバスチャン・バッハがつくった音楽は教会音楽です。日蓮的に言えば邪教を讃美する音楽です。またモーツアルトのレクイエムは人々を不幸にしたでしょうか。西洋音楽に限らず、古代から神を讃美する信仰から生まれた音楽は、日蓮にしてみれば無用の長物なのでしょうか。またアフリカから新大陸へ奴隷として連れてこられた黒人の悲劇的な運命に救いを与えたのは教会で奏でるゴスペル音楽でした。彼らは独特のリズム感と音感によって神の存在を信じ、讃美することで明日への勇気を与えられていました。世界の民族音楽は、その土地の信仰と深く結びついて伝承され完成されたものです。もし日蓮以外の宗教は人々を不幸に陥れる邪教のものとして排除されたとしたら、世界はなんと味気ないものになるでしょう。まあ、極端な話かもしれませんが、平和と文化を守り創造するという創価学会が、なぜ他の宗教を完全否定するような教義をもとにしているのか、理屈が合いません。また、宗教自体を否定し、チベット仏教を徹底的に弾圧し殺戮してきた共産主義の中国と創価学会が仲良くする理由がわかりません。
この疑問に見事に答えられる学会員がいたなら、私は創価学会にもどってもいいと思います。日蓮の仏法思想によって見事に人間の芸術文化を整合性のある理論で納得させることができたなら、私は日蓮正宗の信徒になりましょう。
これはたとえ話です。しかしその疑問に関して深く考察し、日蓮仏法を世界の道理としてきちんと説明できるのであれば、私は本当に知りたいと思っています。


●サラマンダラ(2013年7月26日 05:57)
シニフェイさんおはようございます。たびたびの書き込みすみません
わたしも若いころからクラシック音楽が好きでよく聞いていますしコンサートにも良く出かけます。また絵画鑑賞も大変好きで美術館や展示会に行きます
仰られていることにまったく同感ですね
かって学会、正宗問題が一番盛んなときに学会から法華講に戻られた最高幹部の方が学会の誤りについて全国を回られて当地にこられたときに私はシニフェイさんが言われてるような同じことを疑問としてお尋ねしました。今思い返してみれば確かベートーベンの第九さえ否定されて話題になったときでした、なぜ第九を賛美することが行けないのか質問したところ、あれはフリーメイソンの神を賛美する歌、曲だからだめなんだと一蹴されましたね
まぁ~なんと心の狭い考えと思いました
歴史とともに名曲や名画が神や宗教をを題材にしたものがほとんど、といってもいいくらいなのにと思いました
でもじぶんも若いときはすんなりと心癒される宗教曲でも聴けば(ほうぼう)になるんじゃないか、となかなか聞けなかったですね滑稽なマジなお話です。それくらい考えを狭くしてしまう宗教なんですよね
勇気がわいてくるマヘリヤジャクソンのゴスペル
心癒されるモーアルトやバッハの宗教曲、またオペラなどすべてを法華講の方は永遠に否定されるのでしょうか

●とある法華講員(2013年7月26日 23:20)
 シニフィエ様、コメントを掲載していただき、大変恐縮です。
 実は、不躾な内容を書いてしまった、と後悔しておりました。

 シニフィエ様の芸術に関してのご考察、拝読いたしました。ただ、どうしてこうまで創価学会の信仰が、シニフィエ様やご友人を苦しめるのか、不思議に思いました。法華講は信仰対象については、謗法厳誡ですので、厳しいのですが、クラシックを聴くことや世界の芸術を堪能することを謗法とは決めつけておりません。他宗の神社仏閣を見に行く、その芸術的素晴らしさを褒めることなどを禁止することは聞いたこともありません。昔からそうです。学会の指導だけでは?と思います。そんなことを禁止していたら、正常な社会生活を送れませんよね。

 総本山第9世に日有上人という方がいらして、『化儀抄』という書物の中で、そういうことを述べられています。いま、思い出しましたが、御隠尊・日顕上人様のご親類のお墓が、禅宗の墓地にあり、そこで読経・唱題するのは謗法だ、と学会の方が大騒ぎし、お寺にも押しかけてきたことがありましたが、これも『化儀抄』に照らして、問題ないのです。異常に謗法、謗法と触れ回ってきたのは、学会だけではないでしょうか。

 まず、「創価学会の指導=日蓮正宗」という思考を一度お止めになってみては、いかがでしょうか。そうすると、日蓮大聖人様への考え、解釈もまた違ってくると思います。私が思いますのは、シニフィエ様やここにコメントされている学会に関係された方々は、池田大作氏と幹部の方たちの解釈・指導を、日蓮正宗のそれだと思われているようですが、これは、違うのではないかと思います。聖書やコーランも、指導者によっていかようにも解釈されますので、それと同じではないかということです。猊下様が仰ったことでいろいろ思われるなら、それは正宗の教義ですので、議論の余地があると存じますが、学会の指導・解釈をそのまま正宗のそれと思われ、味噌も糞も一緒だとなると、正宗の信徒として異議を申し立てたくなる気持ちをお察しいただけたら幸いです。

 学会と縁を切った方も、未だに「学会目線」で物事を見ていらっしゃることが残念です。「学会目線」とは、他者を一つの考えや見方でもって切り捨てる、ということです。「学会=正宗」というのも、一つの見方に過ぎません。現に、学会は正宗の教義から逸脱し続けたので、破門されたわけです。私が端的に思う学会と正宗の違いは、慢心を増長させる宗教か、戒めるか宗教かの違いだと思います。正宗の信仰は、日々自己の振る舞いを振り返り、よりよく生きることが眼目です。その根本に勤行・唱題があるのです。

 またまた、長文失礼いたしました。
もし、シニフィエ様がこれは「コメント欄を利用した折伏だな」と思われましたら、どうか不掲載にして下さい。日蓮正宗の宣伝をしたいわけではありませんので(笑)。蒸し暑い日が続いておりますが、どうかご自愛くださいませ。   

●サラマンダラ(2013年7月27日 08:59)
とある法華員さま、はじめまして
クラシック音楽といっても、キリスト、神を限りなく賛美する宗教曲、そしてまた宗教絵画、これらキリスト教を外道と一蹴する日蓮信徒が正宗がすばらしいと諸手をあげて賛美することなどできるのでしょうか
第九のことを書きましたがこれは学会が第九の演奏会をしたときに正宗のほうから批判があったことを覚えています
クラシック好きな私はそのとき、仮に(失礼ですが)正宗が世界に広まっていったときあなた(とある法華講員さま)の言葉のごとくそんなことを禁止していたら、正常な社会生活を送れなくなってしまうと、これらの名画や音楽はどうなってしまうのだろうと思ったものです
指導者によっていかようにも解釈されますという当たり障りの無いお話では誰を信じれば良いのかわかりませんね
話し変わりますが
親が無くなってから後、法華講員の方が足しげく私の説得勧誘に半年か、こ一年こられていましたが私はもう宗教はこりごりと思っていましたので丁重にお断りし続けておりましたが、ある日ついにというかあきらめられたというか最後に言われた言葉は

あなたは傲慢ですねの捨て台詞を残してお帰りになりました

私はあっけにとられてしばらくあぜんとしたまま立っていました。法華講員にならなかったら傲慢なのでしょうか
私はこのときつくづく思いました。これでは学会と同じじゃないかと
とある法華講員さま、学会からも正宗からも離れてしまえば50歩、100歩ほとんど変わらずみえますよ、それも客観的によくわかりますよ


●signifie(2013年7月27日 23:47)
私は正宗なら正宗で信仰されることに何も意義を差し挟んだりはしません。それは正宗は宗教であり、信教の自由が保障された国ですから、それが正しいとか正しくないということを他人にとやかく言うつもりはありません。ただ自分が思うことを自分のブログで言っているのですから、宗教を批判していると捉えないでください。ただし創価学会は宗教の衣を装った詐欺集団です。被害者は会員です。加害者は池田名誉会長率いる組織の上層部です。宗教ではなく社会悪ですから批判します。私の親兄弟も大変な被害を被りました。しかし両親も兄夫婦も被害者であることすらわかっていません。おそらくよほどのことがないかぎり気づかないままでしょう。
よほどのことというのは、まず近々予想されるのは池田氏が亡くなったときに、組織が持ちこたえられるかどうかだと思います。創価学会の資産と池田氏個人の資産がどのようになっているのかは知りませんが、池田氏個人も相当溜め込んでるでしょうから、相続税をどのようにするのかは見物ですし、創価学会の資産が池田氏の死後にどのように扱われるのかも興味があります。そもそも毎年の財務でどれだけ非課税のお金が舞い込み、地方の会館建設ラッシュで、土地や建物も相当買い込んでいます。池田氏亡き後、創価学会の経理がこれまで通り隠し通しきれるのかというところでしょう。創価学会員は卑近な利害で繋がっています。けっして信仰心などではありません。だから功徳と仏罰によって心をがんじがらめにされるのだと思います。
そうした意味においても、創価学会と日蓮正宗は基本的にまったく別物であると思います。こっちがだめだったからこっちにというようなものではないでしょう。正宗の信仰をしていらっしゃる木花さんやとある法華講さんは、とても紳士的に丁寧に正宗のことについて語ってくださいました。それはとても感謝しています。こうした対話はとても有意義だと思います。だからこそ私も正宗に関しての疑問を正直に書いています。これを批判とか攻撃だと思わないでください。私は創価学会の両親のもとに生まれた学会二世として、残念な人生をそれとは気づくことなく送らなければなりませんでした。そしてそのような人が日本にはたくさんいることもネットを通じてわかりました。そしてもうひとつわかったのが、創価学会の人には対話が成立しないということです。なにごとも自分たちの信仰が一番であり、それ以外は不幸になると本気で信じていますし、それ以上のことを考えるスキを与えないものすごい組織ですから、まわりから何を言っても無駄です。もうそれは完全に諦めています。たとえ親兄弟でさえ無理なものは無理のようです。自分で気づくしか方法はないと思っています。

何度も繰り返しになりますが、私は宗教は否定しません。宗教を否定することは芸術もまた否定することになるからです。さらに芸術を否定する宗教は、宗教としてどうなのかという疑問はあります。だから私は正直に日蓮系の宗教には拒否反応があるということを先に述べました。そうした意味ではまだ高度な芸術を生み出した禅宗のほうに興味があります。いずれにせよ私は自分の人生と宗教との関わりをどのように折り合いをつけていけばいいのかということを、最初から探っていかなければならないと考えています。だからどんな宗教も否定はしません。そして創価学会は断じて宗教などではないということは断言できます。


●とある法華講員(2013年7月28日 00:31)
シニフィエ様

シニフィエ様のコメントに大賛成です。シニフィエ様が正宗を含めて、宗教批判をされる意図でないことは、重々承知しておりますのでご安心下さい。

サラマンダ様から質問が寄せられましたので回答しましたが、このブログで正宗の教義を聞かれて私が答えても、それがシニフィエ様のブログの趣旨に合わないのではと思い、心配です。私は正宗の信徒ですが、正宗の代表者ではありません。私が理解している範囲で答えていますので、間違えていることもあると思います。それは、過激な言動をされている0001今も活動家。様も同じことだと思います。0001今も活動家。様の大上段からの物言いは、本当に法華講員なのかと疑いたくなります。法華講員だろうが、学会員だろうが、人としてマナーは守るべきです。

本当に正宗の教義が知りたければ、近くの寺院の御住職様にお聞きいただくか、猊下様の御指南集をご覧いただければ、言うまでもなく一番正確です。

私、今日一日かけて、シニフィエ様の過去の記事を読ませていただき、本当に創価学会という組織の有り方が、大変な社会問題になっているという認識を強く持ちました。シニフィエ様の体験・ご意見に心が苦しくなり、何度も気分転換のため、ベランダに出て沈思黙考しました。

私の疑問は、同じ日蓮正宗信徒だったのに、どうしてこうまで異なってしまったのか、ということです。昔から異質には感じていましたが、もう少し理屈で理解したいのだろうと思います。私の認識ですと、この欄では様々な立場の方が、多角的に「創価学会」を論じるべきだと思うのですが、いかがでしょうか。

サラマンダ様、流れ星様、お二方のご意見や生き方について云々する資格は、私には毛頭ありません。シニフィエ様のおっしゃるように、ここではどんな生き方も是とし、あらゆる角度から創価学会を論じるべきではありませんか。
私の希望は、学会の信仰の素晴らしさを堂々と主張する方のご意見を知りたいのですが、やはりそれは無理な話でしょうか。


●signifie(2013年7月28日 16:06)
木花さんへ

とても心のこもったコメントをありがとうございます。感激です。非公開ということでしたので、そのとおりにさせていただいていますが、できれば公開させていただきたいほどすばらしいコメントだと思っています。木花さんのような方と対話ができてとてもうれしく思っています。今後ともよろしくお願いします。


●signifie(2013年7月28日 16:11)
とある法華講員さんへ

私のこのブログでの意図をご理解していただいて、たいへんうれしいです。父の墓は今も正宗の寺院にあります(骨は半分ですが)ので、今年のお盆には堂々とお墓参りができそうです。今後ともよろしくお願いします。

 


解説

最初のシニフィエさんの言葉は、どう考えればいいのでしょうか。

この疑問に見事に答えられる学会員がいたなら、私は創価学会にもどってもいいと思います。日蓮の仏法思想によって見事に人間の芸術文化を整合性のある理論で納得させることができたなら、私は日蓮正宗の信徒になりましょう。

芸術の仕事にたずさわるシニフィエさんにとって、芸術のことはそれほど大事だということでしょうか。でも、ここには、創価学会や日蓮正宗に戻りたい気持ちがあるのかなと思わせる、心の揺れのようなものを感じます。

芸術に関する正宗の見解は、とある法華講員さんの次の記述が正解だと思います。

法華講は信仰対象については、謗法厳誡ですので、厳しいのですが、クラシックを聴くことや世界の芸術を堪能することを謗法とは決めつけておりません。他宗の神社仏閣を見に行く、その芸術的素晴らしさを褒めることなどを禁止することは聞いたこともありません。昔からそうです。学会の指導だけでは?と思います。そんなことを禁止していたら、正常な社会生活を送れませんよね。

もっとも、創価学会がベートーヴェンの第九の演奏会をしたことについて宗門から批判があった件ですが、私もこれには失望しました。宗門に対してです。
私のホームページ(「よりよい創価学会をつくるために」の解説)にも書いたことですが、創価学会が斎藤克二教学部長の考えるようなソフト路線に舵を切り、これまで外道・邪宗と呼んでいた他宗との和解を図るなら、創価学会にとどまった方がいいのではないかと迷ったほどでした。
しかし、創価学会、池田氏にはウソが多かった。
宗門の方は、アナクロニズムなところはあったが、創価学会に比べ、ウソは少なかった。
そう判断して、私は、創価学会から宗門に移りました。

なお、(7月28日 16:06)のコメントで、シニフィエさんは、木花さんから非公開コメントを受け取ったことを述べています。

とても心のこもったコメントをありがとうございます。感激です。非公開ということでしたので、そのとおりにさせていただいていますが、できれば公開させていただきたいほどすばらしいコメントだと思っています。

木花さんの意志を尊重して、最後まで非公開を貫いてほしいと思います。

獅子風蓮