獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

対話ブログ・ステージⅠ:excommunicateさん登場(1)

2021-11-14 03:38:40 | 対話ブログ

前回に引き続き「芸術が私を救ってくれた」のスレッドについたコメントです。


●excommunicate(2013年8月1日 16:08)
とある理由でこのブログに訪問してしまいました。少しだけ対話の中に入らせて頂いても宜しいでしょうか。もし、気にそぐわないなら、削除して頂いてもかまいません。

木花さんという方の発言が、このブログの本質から乖離して、事実を歪曲されていますので、学会側擁護の立場で軌道修正させて頂きます。

signifieさんのお話の主旨は、日蓮仏法は「五重の相対」や「四箇の格言」から芸術否定に繋がるとし、その思想を体現しているのが学会であり、芸術を愛する貴方としてはその思想とは相容れないため、脱会されたということと思いますがいかがでしょうか。

現在、学会は世界192ヶ国・地域に広がっており、それぞれの国で、それぞれの言語を使い、その国の文化や芸術の土壌で、いきいきと日蓮仏法を行じています。
まず、この世界への広がりの一事を持ってしても、日蓮仏法の深遠さが垣間見れると思いますし、なかんずく、その国の文化や芸術を否定して成り立つものではありません。

ここで大事なことは、その誤った宗教・思想を信仰対象にしているのか、その宗教・思想を人生の行動原理や価値基準にしているかどうかだと思います。

そうでなければ、ある宗教から派生した文化や芸術は宗教色があっても謗法とならないというのが私が教わった学会指導です。

身近な例としましては、この日本においても、多くの学会員がいろんな地域に根ざして活動を展開しておりますが、有名な話しのひとつとして、神社の境内で飲食店を経営していた学会員が、ここで商売をするのは謗法なのかどうか、池田先生に指導を受けた際、先生は全く謗法ではないし、立派に仕事をする人間が最も尊いんだと激励され、自らその鳥居を悠然とお渡りになられました。

また、聖教新聞にも記載されましたが、地域の行事で山車祭りがあり、その山車祭りに参加することは謗法なのかという質問に対して、謗法ではないと学会の指導ではそうなっています。

つまり、宗教色のある建物や芸術品などは、世の中に多くの存在しますが、それそのものが謗法ではなくて、それを信仰対象に据えることが謗法であるということだと思います。

であるから、学会はベートベン第九の歌を唄いましたし、それは歌そのものは芸術なので謗法ではないからです(宗門はこれも謗法だということで破門の原因になりました)。

かつて、ローマ法王と池田先生の対話が実現しようとしたとき、宗門からそれは謗法だと横槍が入り、中止になったことも有名な話しです。

日蓮仏法には「随方毘尼」という考え方があります。

http://www.sokanet.jp/kaiin/kisokyogaku/jissen/14.html

つまり、信仰の対象にするかどうか、その根本的な誤りをしなければ、その国の文化や習慣などに従っても良いとしています。

以上のことから、学会はその国や地域の文化や芸術を最大に尊重しながら日蓮仏法を広めてきたからこそ、世界へ大き広宣流布してきたのでしょう。

逆に、今の宗門に至っては、御書にも書いていないような「僧侶の言うことを聞かなかったら謗法」とか、「学会が建造した建物は謗法」などと、建物にまで 難癖をつける始末で、350億円もかけて建築した建造物を平気で取り壊すといった暴挙を見る時、気に食わないものは取り壊す、破門するという宗門の恐ろしさを覚えるとともに、深遠な日蓮仏法を貶めてしまっていることに、残念で仕方ありません。

●signifie(2013年8月2日 00:07)
excommunicateさん、コメントありがとうございます。
申しわけありませんが、いま仕事が超多忙な時期の真っ最中で、せっかくのコメントに対してきちんと応えていく時間的な余裕がありません。excommunicateさんのコメントの一つひとつにお応えしたい気持ちはあるのですが、私の仕事が滞ると多くの方にたいへんなご迷惑をかけてしまいますので、今はほんの少しだけ要点だけでも書かせていただき、もしexcommunicateさんがこの場での対話を続けてもいいというお気持ちがあれば、私としては大いに歓迎します。
ただ、おわかりのように、私は学会二世の現在54歳の男で、一昨年学会のまちがいに気がついてから、このブログにその思いを書き綴ってきました。自分の人生においてとりかえしのつかない大変な時間と労力と費やしてきたことと、友人知人に向かって大言壮語におかしな似非宗教団体の正当性を主張してきたことを本当に後悔しています。
今の私の基本は、創価学会は宗教団体ではなく、宗教のとりわけ日蓮の排他的な教義を利用した詐欺集団であるというところです。それが50年間以上も創価学会員をしてきた私の結論です。学会の2世3世は、そのことに気づいて脱会している人がとてもたくさんいるということもわかりました。このブログにはそんな方々からの共感のコメントがたくさん寄せられました。ここはそんなブログです。
まず最初に、あえてexcommunicateさんが創価学会を擁護するコメントをこのブログにされるということが、どういうことであるかわかっておられるのかを確認させていただきたいと思います。
いまの段階でここでの対話の論点は芸術と宗教ということを考えた時に、日蓮仏法に即して芸術を捉えると、人類の残して来た優れた芸術の多くは法謗のひとことで片付けられてしまうのではないか。もしそれが違うと言うのであれば、日蓮の教義は時代によって変わってもよしということなのだろうか、という素朴な疑問からです。

私は創価学会が他宗がもとになる芸術をどのように捉えているかを問題にしているのではなくて、日蓮仏法の教義と他宗教がつくり出してきた芸術性の整合性がとれないのではという問題点を挙げました。池田氏がローマ法王と対談して何をしようとしたのか知りませんが、そんなことは問題にも何もなりません。それ以前に私にとっては創価学会は恐るべき詐欺集団なのですから、マリア・テレサとデートしようと、ダライ・ラマとパズドラしようとどうでもいいことなんです。私が創価学会を宗教団体として評価する余地は微塵もありません。それはいったんおかしいと気づいてからすべてが見えてきました。カルト宗教のMCが解けるというのはそうしたものなのでしょう。たいへん失礼な言い方で申しわけありませんが、ここで学会の正当性をexcommunicateさんがどんなに主張されても、ここではそうしたことが論点になっていない以上、対話にならないと思います。また、excommunicateさんがコメントされている内容は、いつも学会がしている通り一遍の言い訳にしか聞こえません。私は昨日今日学会を知った人間ではありません。ものごごろつく前から学会の中にどっぷりとつかってきた人間です。たとえば私が子供の頃、柏原ヤス氏が夜遅くに突然私の家を訪問したことがありました。旅行先で買った記念のおみやげ品や、両親が友人からもらった贈りものにちょっとでも宗教色を見つけては両親を烈火の如くしかりつけました。それはほんとうに些細なものばかりでした。「あなたがこんなことでどうするの!」と怒鳴っていたのを子ども心によくおぼえています。当時の学会は他人の家にあがりこみ、神棚や他宗の仏壇を焼き払わせることを強引にやっていました。これはでっちあげなどではなく、幼い私を毎日のように連れて歩いて会員の指導をしていた私が見てきた私の母親の姿です。

まあ、これはほんの一例ですが、もしexcommunicateさんがこのブログでの対話を望まれるのであれば、徹底的に本音で語っていただきたいと思います。ここは創価学会のホームページに書いてあるようなきれいごとが通用するような場所ではありません。また何度もここで言っている通り、このブログでは宗教の優劣を議論したり、他人の信教の自由を攻撃したりするような場所でもありません。そして何度でも言いますが、私がここで学会を批判しているのは学会がやっているのが信仰ではなく、金と権力を組織の頂点に集約するための不法行為だと思っているからです。

もし、それでもexcommunicateさんがここでの対話を望まれて、創価学会の正当性を主張したいのであれば、池田氏がここ2年半以上も一般の学会員の前に姿を現わさない理由をなぜ誰も知らされていないのかを、客観的に納得できるような説明をしてください。仏法用語にはありもしない師弟不二を指導してきた張本人がなぜ弟子の前に何年も姿を現わさないのか、学会員はいろいろと勝手な理由を話します。しかしそれはどれをとってもなんの客観性もありません。私が知りたいのは「なぜ姿を現わさないのか」ではなくて、師匠が姿を現わさないにもかかわらず、弟子に対して何一つその理由を説明されないことに、どうして弟子は疑問をもたずに選挙や財務に没頭できるのか不思議でなりません。私は自分がそんな不思議な組織に何の疑問も持たずに自分の人生をつぎ込んできたことに、心を病むほどショックを受けました。このショックを一掃できるほどの明確な回答がこの場でexcommunicateさんにできるのであれば、私はexcommunicateさんと大いに対話をしてみたいと思います。そんな明確な回答によって私の創価学会の見方も変わるのはもちろん、ここを訪れるアンチとよばれる方々や正宗の信者さんをはじめ、マスコミも財界も芸能界も政界も、学会に対する印象が大きく変わると思います。できることなら是非そうしていただきたい。また「白バラ通信」に書かれている高倉先生の驚くべき学会とのやりとりに関しても、excommunicateさんがここで学会の正当性を明確に示していただけるとありがたいです。

 


解説
以前にも書いたように、創価学会の方が他宗との融和という点では宗門よりも先を行っていると私は思います。
そういう意味で、創価学会員excommunicateさんの主張は、私には納得のいくものです。

それに対して、シニフィエさんは、問題点を創価学会組織の矛盾や池田氏の消息などにすり替えて、excommunicateさんを拒否する姿勢を示します。
excommunicateさんは、芸術に関する創価学会の姿勢に対する誤解を解くためにコメントを寄せたのに、思わぬ反発にあって面食らったことでしょう。
私は、シニフィエさんは、excommunicateさんのいう「随方毘尼」という考え方を正面から受け止めることを避けているように私には思えました。
シニフィエさんとしては、excommunicateさんに議論で負けると創価学会に戻らなくてはならないので、議論を避けたということでしょうか。

獅子風蓮