獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

対話ブログ・ステージⅡ:excommunicateさん登場(8)

2021-11-21 01:22:21 | 対話ブログ

■の文章は、シニフィエさんの対話ブログからの引用です。

●の文章は、それについたコメントの引用です。


■芸術と宗教(つづき)       投稿日: 2013年8月9日

たとえば、バチカンにあるシスティナ礼拝堂に描かれたミケランジェロの「最後の審判」と「天地創造」。私は実際にこの絵と出会って感動のあまり動けなくなりました。ずっとここにいたいと思いました。ご存知のようにこれらの壁画は聖書の物語をあらわしています。この絵から宗教的側面を取っ払って見ることが可能でしょうか。もし可能だとして、それにどんな意味があるのでしょう。それが文化といえるでしょうか。ミケランジェロの見事な造形力にだけ注目することが文化なのでしょうか。私はそうは思いません。この絵が聖書の物語だからこそ成り立つものだと思います。

同じくこれもバチカンにあるミケランジェロ25歳のときに彫られた「ピエタ」です。とはいえ観光客が見れるのはレプリカのようですが、それでもこれが聖母マリアと主イエス・キリストであることを無視してみることにどんな意味があるのでしょう。
ここにあるのはまぎれもなく宗教性です。ローマカトリックと聖書がなければ存在しなかった至高の芸術作品です。これらの作品の芸術性を認めるということは、ローマカトリックの宗教的意義をも含めて認めるということだと私は思います。人類が芸術作品に意識的に宗教性を排除するのは第一次大戦前後のヨーロッパに起きたダダイズムぐらいからの、いわゆる現代美術とよばれる運動から以降の作品です。わずか100年かそこらの話です。それまで人間は宗教とともに芸術作品をつくってきました。それを今になって芸術は文化だから宗教的側面とは切り離して鑑賞するなんておかしな話だと私は思います。
もし日蓮がバチカンに行ってミケランジェロの作品を見たとしたら、「これはすばらしい作品だ、外道だけど」って言うんでしょうか(笑)。
池田氏はローマ法王と対談する話があったと言ってましたけど、外道の総大将であるローマ法王と接見してどうするつもりだったんでしょう。折伏でもしたんでしょうか。「あなたはそんな信仰をしていると地獄に堕ちるよ。悪いことは言わないから謗法払いして、こんなものみんな焼き払いなさい」って(笑)。創価学会にとっては外道の指導者となるキング牧師やガンジーなのに、池田氏は彼らと肩を並べたかったのを考えれば、ローマ法王と会えるほどオレ様はエラいんだと会員に自慢して尊敬を集めたかったというのが実際のところだと私は思います。あさましいかぎりです。

人類最古の絵画と言われているラスコーの洞窟壁画は、狩猟祈願の祈りの絵として描かれたというのが一般的な学説です。1万5千年前の旧石器時代にクロマニヨン人によって描かれたものだそうです。おそらくこれ以前にももっと多くの「祈り」としての絵画が存在したのだと思います。絵を一度も描いたことのない人間が、突然このようなすばらしい絵を描けるわけがありません。しかしいずれにせよ絵画の発祥は「祈り」から始まったものであることに違いはありません。芸術はその原初から宗教的側面と切り離しては考えられないということがわかりますよね。
芸術が太古の昔からその土地の宗教に根ざしてつくられていきました。ネイティブ・アメリカン、アステカ文明、マヤ文明、オーストラリアのナバホ族、エジプトの他にもアフリカ各地の民族芸術、ギリシア、トルコ、地中海沿岸、メソポタミア、インド、中央アジア、東南アジア、中国、エスキモーなどなど、何千年もの昔から世界中の人々の暮らしの中になんらかの信仰とともに芸術がつくられていったのです。その芸術から一宗教の教義にそぐわないからという理由で宗教的側面を剥奪して芸術を鑑賞するということに、どんな意味があるのでしょう。
芸術と宗教とはそれだけ切っても切り離すことのできない表裏一体のものです。そのへんの美術館に行って絵を眺めて「きれいな絵だね」というような簡単な話ではありません。芸術が見るものに投げかけるものとは、人間の本質に迫る重要な問題であり、世界の有り様に関わるたいせつな哲学的命題であります。
創価学会の方も、日蓮正宗の方も、どうも芸術に関しては軽くとらえているような気がします。つまり芸術をなめてかかってるから、宗教色のある作品でも見たり聴いたりしますよなんて軽く言えるのではないでしょうか。
日蓮は自分が末法のご本仏であり、三大秘法以外を信じるものは救われないと明言しているのであるならば、ましてや外道の考えを賞賛する芸術を認めるわけがないのではないですか?それとも創価学会にしても日蓮正宗にしても、そのあたりはなんとなく現代の世情に合わせた懐柔策をとっているのでしょうか。


●木花(2013年8月10日 09:06)
おはようございます。
私がsignifieさんのブログで感じる事は、他宗信仰者を否定しているなぁということです。
鎌倉時代に念仏が広まり法華経への帰依が希薄になりました。
そのため日蓮大聖人は諸大善神は法味を得られず天上界へ去ってしまい、悪鬼が盛んに災難を起こしていると示され布教活動をされました。
日本国の安寧のために折伏されたのです。
迷っている無明の人を法華経に導くために布教活動されたのです。
ですから芸術を否定などしていません。
signifieさんはそう学会で教えられたから、そう思うのではないでしょうか。
それで他宗信仰者の芸術作品は否定しないといけないと頑なに思われているのでは?

>もし日蓮がバチカンに行ってミケランジェロの作品を見たとしたら、「これはすばらしい作品だ、外道だけど」って言うんでしょうか(笑)。
これは言い過ぎではないでしょうか。
signifieさんは日蓮大聖人のことよくわかっていて、このような発言をされたのでしょうか。
私はいつも学会員に対して思うのですが、どうしてよく知りもしないことをあたかもそれが事実であるように発言されるのか不思議です。
疑問を持ったならまず調べて、自分の頭で考えるべきで、それをされないのはなぜなのでしょう。
池田さんの指導が基礎としてあるからではないかと私は思うのですが・・・。

●signifie
2013年8月10日 09:50
木花さん、おはようございます。

>鎌倉時代に念仏が広まり法華経への帰依が希薄になりました。
>そのため日蓮大聖人は諸大善神は法味を得られず天上界へ去ってしまい、悪鬼が盛んに災難を起こしていると示され布教活動をされました。
>日本国の安寧のために折伏されたのです。

こうした断定的ないい方も、ことも普通の人間にしてみれば想像の範疇を超えないと思います。

何度も言いますが、人類の創りだした芸術のほとんどは宗教芸術であって、宗教と切り離して考えることは不可能だと私は言っているのです。宗教芸術はその宗教とともに否定することができないということを繰り返し言っているのですが、どうしてそれを

>それで他宗信仰者の芸術作品は否定しないといけないと頑なに思われているのでは?

というように解釈されるのですか?
たとえば上に示したようにミケランジェロのようなキリスト教の芸術はキリスト教自体と切り離してみることは無意味だと私は思います。
ですからキリスト教芸術を賞賛することはキリスト教も含めて認めるということであり、
創価学会や日蓮正宗の方であってもキリスト教芸術を賞賛するということはキリスト教を認めるということになるので、
他宗を排斥する(念仏を否定するような)日蓮の教義と整合性がとれないのではないでしょうかということを言っています。
「私は他宗信仰者の芸術作品を否定するべきではない」と繰り返しいっているつもりなのですが、
木花さんは、この私の考えをどうして全く逆の意味にとらえられるのでしょうか、そこが理解できません。

私としては創価の考えを批判するとともに、そうとうわかりやすく説明しているつもりなのですが、まったく逆の意味として捉えられてしまうのでどうしようもありません。
どなたか私の意図を木花さんへご説明していただけないでしょうか。

●木花(2013年8月10日 11:05)
ごめんなさい。
そうでした。創価の教えのお話されていたんですよね。
ですので、このコメントの前にした一行コメントは削除して下さい。

それにしても、創価の教えと日蓮正宗の教えが全然違うので、創価の教えのおかしさを法華講は答えようがないです。
「創価学会の方も、日蓮正宗の方も、どうも芸術に関しては軽くとらえているような気がします。」・・・残念なお言葉ではありますが、signifieさんそう感じていることに反対はいたしません。
日蓮大聖人はキリスト教の教えは間違っているとしていますが、キリスト教に限らず他宗の存在自体を否定はしていませんよ。
そこの解釈が違うようですね。

●signifie
2013年8月10日 16:51
(前略)

木花さんへ

>日蓮大聖人はキリスト教の教えは間違っているとしていますが、キリスト教に限らず他宗の存在自体を否定はしていませんよ。

日蓮は他宗の存在自体を否定してはいないとしましょう。つまり
「末法においては本仏であるこの私ただひとりが解釈する法華経以外では、もはや衆生は救われないのだよ。
かといって他宗の存在は否定しないけどね。でも同じ鎌倉時代に出てきた新興組の念仏を唱えると無間地獄に堕ちるし、
禅を修すれば頭割れるけどね。他のお寺にしたって一家離散したりでろくなことないし。
ま、存在自体は否定しないんだけどさ」
って言ってるわけでしょ。これって優劣のことを言ってるのではないでしょうか。
これも創価学会独特のご都合主義ニセ日蓮宗なのでしょうか。
私はまだ創価学会の詐欺にはまって動けないでいるのでしょうか。

>>もし日蓮がバチカンに行ってミケランジェロの作品を見たとしたら、「これはすばらしい作品だ、外道だけど」って言うんでしょうか(笑)。
>これは言い過ぎではないでしょうか。
>signifieさんは日蓮大聖人のことよくわかっていて、このような発言をされたのでしょうか。
>私はいつも学会員に対して思うのですが、どうしてよく知りもしないことをあたかもそれが事実であるように発言されるのか不思議です。
>疑問を持ったならまず調べて、自分の頭で考えるべきで、それをされないのはなぜなのでしょう。

私は創価学会から脱したので、それまで末法のご本仏だ人本尊だと思い込まされていましたので、日蓮のことを大聖人と読んでいましたが、今は数ある宗派の中のひとつの教祖として日蓮と呼んでいます。親鸞や道元や天台を呼び捨てにするのと同じです。それはソクラテスやプラトンやニーチェやハイデガーを呼び捨てにするのと同じことです。木花さんもソクラテスさんとは呼ばないでしょう。それと同じです。べつに馬鹿にしたり非難したりはしていません。ただ芸術に関しては普通に考えても整合性がとれないなあと思っているだけです。それとも日蓮を呼び捨てにして現代語で表現したら罰が当たりますか。これは単に話をよりわかりやすくするためです。日蓮氏というのも変ですよね。それに日蓮大聖人と呼ぶのは学会と正宗だけでしょう。日蓮宗のお坊さんも信者さんも日蓮上人だったと思いますが、ちがったらごめんなさい。前にも何度も言いましたが、私は日蓮正宗に関してさほど興味もないので、というか今となっては他の宗派と同じような位置にあるので、とくだん日蓮を差別する理由もありません。私の中では今のところ鎌倉仏教界のパンンクロッカー道元が一歩リードって感じでしょうか(笑)。日蓮も含めて他の教祖もみんな当時のアウトローだったわけですけどね。

●木花
2013年8月10日 18:12
sinifieさんへ
日蓮と呼んだことに対して言ったのではなく、「これはすばらしい作品だ、外道だけど」って言うんでしょうか(笑)。がちゃかしたように聞こえたことを言ったのです。
四箇格言を明確に解釈していないので上手く答えられないのですが、日蓮正宗で教えられている四箇格言と創価学会の四箇格言は違うようですね。
「末法においては本仏であるこの私ただひとりが解釈する法華経以外では、もはや衆生は救われないのだよ。
かといって他宗の存在は否定しないけどね。でも同じ鎌倉時代に出てきた新興組の念仏を唱えると無間地獄に堕ちるし、
禅を修すれば頭割れるけどね。他のお寺にしたって一家離散したりでろくなことないし。
ま、存在自体は否定しないんだけどさ」
こんな上から目線の言い方は日蓮正宗はしません。
創価学会独特のご都合主義ニセ日蓮宗だと思いますよ。
学会員は僧侶から御書や教義を学んでいませんよね。すべて学会員か池田さんに指導受けている。
それが正しくなかったということです。
私はsinifieさんの先入観を変えることはできません。
元学会員・学会員のみなさんは「大聖人の教えと芸術の整合性は到底無い」と思っている。
それをとやかく言うつもりはありません。
日蓮正宗とは違いますね。それだけのことです。

●signifie
2013年8月10日 23:44
>元学会員・学会員のみなさんは「大聖人の教えと芸術の整合性は到底無い」と思っている。

木花さん、それはちがう(^^)。
【私も含めて元学会員は「大聖人の教えと芸術の整合性は到底無い」】と思っていても、
【学会員は「大聖人の教えと芸術の整合性は到底無い」とは絶対に思えない】のではないでしょうか。もしくは
【学会員は大聖人の教えに反する芸術は芸術として認められない】と思っているのではないでしょうか。
私も学会を信じていた頃は、その矛盾に苦しんでいたわけです。
あなたも元学会員なのに、元学会員と学会員の考え方の違いをなぜ理解されないのですか?

学会員は自分たちの考えが世界で一番正しいと思っているので、何が何でも大聖人の教えと芸術性は整合性がなければ困るわけです。芸術に限らず、すべてのことについて自分たちの信仰が完全無欠の法理だと信じていますから、理論的に来られると話をはぐらかしたり、遠い目になって聞こえないフリをします(笑)。
ですから私はあえて誰でもわかりやすいような【創価学会の考え方の矛盾点】を明らかにするためのとっかかりとして、芸術の話をしました。なにも日蓮正宗の矛盾点を言及したいわけではありません。日蓮正宗の方が芸術をどのように見ようとも、ここではさほど問題にしていません。ついでの話で「この点は日蓮正宗ではどうなんでしょうね」といった程度にとどめています。それは江戸時代や明治期はどうなのか知りませんが、ともかく日蓮正宗が700年続いているれっきとした宗教であり、学会のような宗教を隠れ蓑にした社会悪ではないからです。
ここで芸術と宗教をテーマにしているのは、創価学会のあきらかな反社会的な考え方を明確にするための題材のひとつに過ぎません。あくまで創価学会の矛盾をはっきりさせるためのとっかかりです。このテーマが出たはじめのところを見てもらえばわかると思いますが、仮に創価学会がその目的である広宣流布を達成した時に、世界の宗教を基盤とした膨大な芸術作品はどのような扱いをうけるのでしょうか?という問いかけでした。日蓮正宗のことはよくわかりませんが、【創価学会での五重相対や四箇格言】に照らせば、それらミケランジェロから日本の仏像にいたるまでの多くの芸術作品は謗法であることになってしまうのではないかということを書きました。あくまで【創価学会の五重相対や四箇格言を正しいとするならばという仮定】の上での話です。それを木花さんは私の考えであるかのように思い込まれているのではないでしょうか。ですからさきの日蓮の現代語表現は創価学会が考える日蓮の言葉として表現したので【上から目線】であり【ちゃかした表現】なのです。
木花さん、毎回書きますが私は日蓮正宗をなんとも思っていません。ここで問題にしているのは最初から創価学会の社会悪についてです。木花さんも「ちょっと気が抜けちゃいました」って言ってたではないですか。木花さんを批判する気はさらさらありませんので誤解なさらないでください。先日ここにコピペをくりかえしていた今も活動家。さんを出入り禁止にしたのは、このままでは日蓮正宗の印象が悪くなるばかりで、本題から話がそれて混乱すると判断したからです。私はむしろ宗教としての日蓮正宗を擁護しているつもりですけど(^^)

木花さん、どうでしょう?ここまで説明しても私が創価学会の教義を信じて日蓮正宗を攻撃しているように思われますか?私が創価学会の教義に縛られて苦しんでいると思われますか?木花さんが最初にここにコメントしてくださったときに、すぐに木花さんのブログを読ませていただきました。
http://ameblo.jp/yo-akemae24/
ここで話されているキャラとはずいぶんとちがって、かなり過激に創価学会を批判されていますよね。ほんとに同一人物なのかなと疑うくらいでした。そして日蓮正宗についてはほとんど出てこない。私はすこし「あれ?」と思っていました。日蓮正宗は学会と闘ったりしませんといったことを最初に言われていたわりにはかなりの学会バッシングを展開されているので、ちょっとびっくりでした。いいですけどね(^^)

それから宗教の優劣についてですが、木花さんはこのように仰っていました。

>日蓮大聖人は他宗では救われないと仰ってはいますが、劣っていると教えてはいないです。
>大聖人は衆生の救済のために立宗されたのですから、劣っているという解釈は間違っているかと・・・。

木花さんに日蓮正宗について語るのは、それこそ釈迦に説法なので恐縮ですが(笑)、日蓮正宗はたしか大正元年に改名して「日蓮正宗」になったと思います。それまでは日蓮宗富士派として、いわゆる【勝劣五派】のひとつだったと思います。その【勝劣五派】という名称の由来は「(法華経)本門が迹門に優れるという勝劣をたてる諸派の総称」から来ていて、つまり日蓮正宗は宗教に優劣を断ずる五重相対に照らして法華経本門を本流としたわけですよね。【勝劣五派】という文字通り日蓮正宗の成り立ちが法華経に至るまでの宗教の優劣を断じた結果だったのではないでしょうか。
さらに木花さんはこうも仰っています。

>法華経以外は劣っていると教えているのは創価学会・池田さんの指導ですよね。

これでは日蓮正宗の教義と創価学会・池田さんの指導は同じということになりはしませんか?木花さん、本気でそう思っていらっしゃるのであれば、もう一度正宗の僧侶の方に五重相対と四箇格言の解釈について確かめられたらいががですか。世界中に仏教の宗派は数えきれないほどありますが、日蓮を本仏とする宗派は日蓮正宗と創価学会のみで、したがって日蓮を本仏とする広宣流布を謳っているのも日蓮正宗と創価学会だけです。でも私は創価学会と日蓮正宗はまったく違うと思っています。それは何度も言っているように、途中でなんだかんだと分裂統合はありはしたものの、それでも大石寺700年の歴史をもつ宗教であり、一方は戦後のどさくさと高度経済成長時に都会に放り出され精神的に阻害された人々の心をあやつり縛り上げ暴利をむさぼるだけの社会悪ということがわかったからです。
日蓮正宗は堂々と本門の本流を勝劣で主張しています。私はそれはそれで立派だと思いますよ。他の日蓮宗派が戦時中の大政翼賛会に無理矢理合同させられたときでも、日蓮本仏論を主張する正宗だけは断固独立を貫いたんですから。でもそのこともあえて書きませんでした。それは私にとって日蓮正宗がどのような教義であってもさほど関心がないからです。日蓮本仏論を唱える宗派としては他にない超マイノリティ宗教ですが、日蓮が末法のご本仏であっても、あるいは正宗以外のすべての日蓮宗のように釈迦を本仏としたとしても、私にとってはたいしたことではないからです。ただ木花さんがことごとく私の言ってることと真逆の捉え方をされるので、ここはひとつぐらい話の矛盾を説明しとかないとなと思った次第です(^▽^)
私は日蓮正宗を批判するどころか、かなり持ち上げていると思います。それをどうして日蓮正宗の信者さんである木花さんからことごとく誤解されて「創価の教義に縛られて苦しんでいるようで気の毒だ」と言われるのかわかりません。私が苦しんでいるのは創価から抜け出て初めてこれまでの自分の間違いに気づいたからです。私ははっきりと創価学会の呪縛から覚醒しています。そして私の人生経験上、芸術はいかなる場合でも宗教によって左右されてはならないと思っています。逆に言えば芸術をどんなかたちであれ抑制するような教義の宗教であるならば、それは低俗な宗教であると思います。しかし創価学会はそんな宗教云々の次元ではない。もともと非常に悪質なネットワークビジネスであり精神のねずみ講だと位置づけていますから、教義がどうのこうのと議論する意味さえないと思います。創価学会員さんにはそのことに一人でも多く、一刻もはやく気づいてほしいと思っています。

 


解説
私は、木花さんの言われているように「日蓮正宗はあらゆる芸術を敵視していない」と信じたいです。
しかし、日蓮正宗の教義を原理的にとらえると、キリスト教の宗教性をもった芸術に理解のない面もあると思うのです。
そのいい例が、ベートーヴェンの第9の合唱を批判したことですね。
木花さんは、正宗の立場を批判できないから、シニフィエさんの正論に正面から反論できないような気がしました。
他宗との融和という点では日蓮正宗よりも創価学会の方が、一歩先んじているのが現状だと思います。
正宗内でも、他宗との融和や宗教性を持った芸術を認めることなどについて、風通しのよい議論が交わされてもいい時期なのではないか、と個人的には思います。
でも、宗門批判など許されない立場の木花さんとしては、ここでの対話は、きついですよね。
心中、お察しします。

獅子風蓮