獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

対話ブログ・ステージⅡ:崖っぷちさん登場(1)

2021-11-30 01:05:14 | 対話ブログ

■の文章は、シニフィエさんの対話ブログからの引用です。


■功徳について考える          投稿日: 2013年8月25日

創価学会の方にお訊きしたいのですが、もし創価学会の信心で功徳はないと知っていたら、それでも創価学会の活動を続けますか?世界の平和と文化の総体革命のために、自分の財産と労働力をつぎこみ、選挙活動に奔走し、聖教新聞を友人知人に購読してもらうようにお願いして回りますか?自分に何の見返りもなく、創価学会の活動を死ぬまで続ける覚悟がありますか?
なぜこんな質問をするのか、普通の人ならすぐに理解できると思います。それは本来宗教は見返りを求めるものではないと思うからです。この質問が理解できず、信仰に功徳を求めることがどうしていけないのかわからないと思うのであれば、それは少なくとも仏教ではないと思います。自分はこの信心をしているのだから、信心していないものよりも福運があるはずだ。人よりも幸せになれるはずだ。これだけ財務を頑張って、選挙も走り回って、新聞啓蒙もしこたまやって、折伏もたくさん決めて、組織ではそこそこ役職もある。これで他の宗教をやっている人間よりも幸せの切符を手に入れたようなものだ…と勘違いしている創価学会員も多いことでしょう。人より幸せになりたい。それがそもそも卑しい煩悩のかたまりではないでしょうか。功徳、つまり創価学会員にとっては活動の見返りです。それを求めること、あるいは見返りをモチベーションとして、ひたすら組織の言いなりになることが、はたして信仰といえるのでしょうか。
学会の指導は、ひたすら「自分で考えるな」です。「何も考えずに池田先生にお応えするんだ」です。自分の意思で考えられると困るからです。組織に疑問を抱いたり、折伏や選挙の結果が出せなかったりすると「我見の信心だ」とか「それは君のエゴだよ」などと、ますます何も考えずに組織に尽くせという指導しかありません。そうやってMCを深められていきます。功徳はアメ、地獄はムチ。そして「何も考えることなく組織のために戦い抜け」というのが学会の指導です。会員は組織のためのロボットです。ただ働きどころか、毎年お金まで貢がせる奴隷なのです。ありもしない功徳に惑わされて利用されるだけ利用される哀れな奴隷であることに、一日もはやく気づいてほしいと思います。

 


解説
対話ブログが非公開になったため、これについたコメントを参照することはできません。
崖っぷちさんが興味深いコメントを寄せていた記憶があるのですが、詳細を書けず、残念です。
是非、シニフィエさんには、対話ブログを再開していただけることを望みます。

獅子風蓮