★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

負けたくない人たちの情緒論

2024-04-21 23:20:37 | 思想


故詩日『立我烝民、莫匪爾極。』是以神降之福、時無災害、民生敦厖、和同以聽。莫不盡力、以從上命、致死以補其闕、 此戰之所由克也。

中正の準則みたいなものがない国は負けるというの真理なんだろうと思うんだが、それを認めたくない卑しい輩が爆弾とかメディアの暴力を行使している。多数決だって、そういう時の暴力として、機を見て行使されている。誰が観ても真理が明々白々の場合はそんなものを行使する必要がない。しかし、真理の表面化を懼れる連中が少しの差異を強引に作り出している。

だから、敗戦やプロ野球球団の暗黒期なんてのは人間には必要である。一時期の巨人なんか、もしかしたら2位になってしまうという恐怖のために、毎年4番打者を「少しの差異」を作り出すために入団させていた。いまだって、どこが優勝するか分からない団子状態なのである。かくして、――もう誰か言っているだろうけど、中日ファンはいつまでもファンだからだめなんだよな、いまはファン達こぞって中日「推し」となり、巨人や阪神にぼろ負けした選手の子どもに転生して親の無念を晴らす(「推しの子」参照)、これですわ。。。

前にも書いたけど、野球とかサッカー選手のアスリート化は観客を変えるし、飲み会文化も変えるのではないかと思う。というわけで、我々もアスリート達も大してかわらない庶民となりはてた。

そういえば、無頼派と近代文学派のあいだをうろうろし、おれは何処にも属しないとか言っていた不良文士=大井廣介のプロ野球論はいくつか読んだことがあるが、若い広岡達郎に飲み屋か何かで会ったときに、――「その日私はかんしゃくを起こしていた」んだが広岡さんはいい青年だったみたいな意味不明のことを書いていた。かれにとっては広岡は自分より下の存在なのである。彼の野球論は長嶋以降の国民的なにものかになった野球以前の雰囲気を漂わしている。まだ野球選手はスターでは必ずしもなかった。大井の文章からは、野球を職業にしてしまった給料の低い人たちのその競技が大好きという気持ちが――ゴシップだけが活き活きとした全体としては案外淡々とした文章に溢れている。まあ彼のブルジョア文壇論に通じるところが確かにある。文壇と野球が、結局、職業化して行くプロセスの出来事だったのだ。とはいえ、彼の「バカの一つおぼえ」みたいな文学に関する楽屋落ちみたいなもののほうがよほど下品なかんじで、週刊誌的なセンスから言って無頼派なんてのはほんとは大井みたいな奴のことではないかとおもわれる。

私は忠告する。プロ野球選手を志望する人は、プロ野球に骨までしゃぶられ、廃人になり、普通人としては半端者になり、街頭に放り出されてみると、途方に暮れ、死にたくなる。…プロ野球と心中し、野垂れ死にしても構わない人でないと、やめておいた方が無難だ


――大井廣介(1958年)


そのやめといた方がよいというのは、完全に文士と一緒ではないか。

彼には、娯楽に対する憧れはあったが、情緒がなかったのかもしれない。サルトルの『情動論粗描』の飜訳で、竹内芳郎氏が絶対おれは情動じゃなくて情緒を使うんだと言い張っていたら、ある種、また違う可能性もあったんじゃねえかと昨日思ったが、当時の文人は、先輩達を否定しようとして自ら面白いだけの人たちに顛落したところがある。

かくいう私も、いま思い出したところで言うと、映画を二回以上観にいったのは「キルビル」と「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」だけであって、たぶんわたしにとっては映画とは半分以上音楽であるからだ。あと今気付いたんだが黄色が好きなのではないだろうか。――こんな感じでわたくしも情緒みたいなものに対する憧憬を保っているにすぎない。


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