★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

鹿来れり

2021-10-25 23:48:26 | 文学


人来ばと思ひて雪を見る程に しか跡付くることもありけり

「しか」は確かと鹿がかかっていて、この「跡」は、「人来ばと思ひて」と繋がっている観念でもある跡なのである。思うに、西行は雪をまっさらなものだとおもっているのだが、もともとそうとは限らない。わたくしは、雪が多い地域で育ったから、雪はまっさらのようにみえて、よく見てみると細かいゴミだらけなことが多いと知っておる。確かに鹿も足跡をつけてゆくかもしれないが、糞もしかねないのである。

子どもの頃は、雪を食べてみたりしたのだが、非常に危険な行為であった。

登校途中で、まっさらな雪に朝トイレにいてこなかったのか、おしっこをしている子どもが結構いた。「しか跡付くることもありけり」。

其の時である。ピューンピューンという何かの声が霧の底から幽に聞えて来た、冴えた尻上りの細いがよく徹る声だ。耳を澄せば近いようでもあり、遠いようでもあり、鳥か獣かそれすらも分らぬ。私は其声に射竦められて、三十分余りも樹の枝にしがみ付いていた。すると颯と霧が開けて、右手に目的の尾根が現われる。声を揚げてオーイと呼ぶと、十五、六間離れた樹の上で、矢張霧の晴間を待っていたらしい案内者が笑顔を向けて「オー、旦那そこに居たかね」と答える。一緒になって、さっきの声はありゃ何だと質せば、鹿の声だと無造作である。土の段は。そりゃ奴等の作った寝場所でさあ。これで三十分も私を苦しめた謎の正体も飽気なく解決されてしまった。

――木暮理太郎「鹿の印象」


そういえば、国木田独歩の「鹿狩」でも鹿の鳴き声は描写されてなかったかもしれない。主人公の少年が養子に行くおじさんの息子が鉄砲腹をやったときも別に描写があるわけでなし、鹿を撃ったときだってあまり音がしているようには我々は感じない。音が風景に飲み込まれているのは、今の我々も同じである。子どもの叫び声などが却って上の鹿のように聞こえてくるようになってしまった。これからいずれまた、人間を風景に飲み込む工夫が成されると思う。