★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

檸檬と蛙さん

2021-10-30 23:30:26 | 日記


山深み岩に滴る水とめん かつがつ落つる栃拾ふほど

こんな歌は事実だけとってみればなんということもないのだが、作品なのである。事実偏重主義みたいなものと権威主義は屡々結びつく。ただの事実を真実みたいに輝かす必要があるからである。注釈作業が現状追認型になりがちなのは昔から言われている学問的忠告だが、わたくしが危惧するのはむしろ、研究者が陥る人格まで至る機械主義である。やはり、「暗夜行路」や「夜明け前」を我々の文化はくり返し咀嚼すべきだと思う。「古事記」と「源氏物語」を読んだ上で。我々の文化は、常に機械的真実に対する逃走がある。

反権力みたいなのは確かに思想的には素朴な場合が多いとはいえ、中学生の反抗でさえ、それがある種の想像の発現であることは重要である。だから、それって感想ですよねとか主観ですよねとかいう人間はおかしい。小学校の後半あたりから私も、どうでもいいものから今に至るテーマにいたるまで、その想像に忙しくて学校がかったるかったことを思い出す。こっちは忙しくしてるのに学校が無為の時間を強制してくるのだ。学校は、教育の困難への絶望から、思春期を発達段階の生理的な何かとして高をくくる。だから、管理するしかないんだと思ってしまうのである。

むかし、教育実習にいったときに、「昔の高校教員は大学の先生みたいだったけど、いまは生徒も父兄も受験勉強を要求してくるからその道は絶たれている」と言われた。ほんとうはちょっと違うだろう。昔から受験勉強はある程度要求されてたわけだし、それなりの父兄からのプレッシャーも存在していたが、知識人としての矜持が精神的なサボタージュを可能にしていた。問題はむしろ、本質的に上の発言をした教員が受験勉強で育っているだろうということである。キャリア教育が小学校から有効性を過剰に持つとどんなディストピアが来るかということだ。学校の先生は職業に即したことしかできず、大学の先生もそれらしきことに集中するしかなく、そういう仕事の他はプライバシーです、――こんな風に育ち上がってしまうと、というより、幼少期からそういう風に生きてるからそのキャリア道の障害をいやがるようになってしまう。人間、塞翁が馬であることさえできなくなったら大変なことではないだろうか。

こんな事態に対する我々の違和感が、コミュニケーション能力とか言わせるわけだろうけれども、そんな風に名づけてしまっては元も子もないのである。またコミュニケーション能力装備してますみたいな狭量で厭な人間がでてくるだけではないか。学問の自由とか職業選択の自由とかいうのは、こういう職業ロボットみたいな人間を生み出さない自由のことであって、自己相対化や自己肯定感、これら全て、この自由を前提にしていないとどうしようもない。

想像がなければ、研究も理念も機能しない。想像の自由をなくすことは自由をなくすことである。