★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

世を捨てる情況

2021-10-09 22:37:25 | 文学


世の中を捨てて捨てえぬ心地して 都離れぬ我が身なりけり

山家集の前後には捨てたけど捨ててない気がするとか、まだ思い切りが足りないんだとかなんとか歌ったものがあるので、出家の不徹底さを感じていたのだろうと思うんだが、――西行はたぶん周りに「おれ出家したからOK」みたいな出家の観念にひっついてしまったオバカちゃんが目に入って、もっとシンケンに出家しなさいよと思っていたのかもしれない。歌なんだから人に向けて歌っているわけで、内省だとは限らないのである。

そもそも、出家とは、世事のおしゃべりや手続きみたいな記号操作からはなれるだけで、むしろ、世の中の情景が自らの前にせり出しよく見えてくることを意味している。実は、離れるどころではなく、人の苦悩を背負う羽目になるかもしれないのは当然である。

最近は、一人で過ごす人々が実際は出家状態になっており、観念的な怒りにかられて苦悩しているのはよく知られたところである。たぶん釈迦もそうだが、出家することによってまずは一回観念的な堕落を経験するのである。

「東京」を称して一と口に魔都と呼び慣わす所以なのであろう。われわれの知らぬうちに事件は始まり事件は終る。この大都会で日夜間断なく起るさまざまな犯罪のうち、われわれの耳目に触れるものはその百分の一にも当らない。それも、形象は深く模糊の中に沈み、たまさか反射だけがチラリとわれわれの眼に映じるのである。

――久生十蘭「魔都」


都を離れるといっても、ここまで魔の場所となると逆におもしろくこの中に出家できそうだというのがモダニズムだとすると、そんな幻想もなくなったのが現在の情況である。