鈴鹿山憂き世をよそに振り捨てて いかになりゆく我が身なるらん
「いかになりゆく我が身なるらん」というのは知ったことではないが、――寧ろ問題は、憂き世を「よそに振り捨て」ることが可能かということであった。「よそに」は場所を示唆しない。鈴鹿山がちゃんと場所なのに。むろん、鈴と振ると鳴るが縁語でつながっているので、案外、鈴をふりふりるんるん気分だったのかもしれないとも思わせる。「いかになり(成り=鳴り)ゆく」とか絶望だか雀躍だかのポーズを見せてみる西行は、たぶん、そういう背反的意識の面白さを感じているのであろう。
望遠鏡でオリオン大星雲をみながらスケッチするといいながら、実際には見えてないものを沢山描いていたわたくしは、嘘つきか文学むきか、どっちなのであろう。だいたい、批評用語で、ベンヤミン以来、「星座」を見出すんだみたいなこと言う人多いけど、「星座」を見出すのではなく「星座」から何を思うかも重要なのである。
西行にとっての出家も同じだ。出家は星座である。いざ出家してみたら、いろいろ見えてくるわけだ。
もっとも、藤井旭氏の『全天星座百科』のオリオン座のところをみてたら、三つ星がどうみてもオリオンは尿路結石ではないかとおもったわたくしは、見えないものが常にみえるというより、経験がみえるだけのことであった。しかし、まあ、単に「星座」がみえたり、アルテミスは美人かどうかが気になっている段階よりもましなのではないかと思う。