★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

身を捨ててこそ

2021-10-07 23:14:52 | 文学


惜しむとて惜しまれぬべきこの世かは 身を捨ててこそ身をも助けめ


家柄と才能をもちながらこんなことを言っているのかとも思うが、人間社会のことである、本当に「惜しまれぬ」ことになってしまうことは屡々起きる。そんなときに、思い切って惜しいなど言わずに、身を捨てると言ってみようというわけである。精神から肉体への変換というか、そういうことも屡々、決心のありようとして語られている。ある種の絶望の形態であることが多いわけだが、絶望の因果を辿ったところで、自分の善意みたいなところにたどり着きかねず、まあどうしようもないわけである。その時は、精神を捨てる覚悟をしても欺瞞的になるだけである。そこには自分ではなく本当は「この世」しか映っていないからである。だから、大事なのは身を捨てることだと一応問題の主体を取り替えるのである。

とはいえ、この「身を捨てる」のが決心になるためには、実際の死が遠からず存在していなくてはならない。決心が二度三度あってはだめで、伸るか反るかでなければならないわけだ。まわりを見渡しても、中年以降の学問は長い病気との闘いに他ならないのだが、昔ならたぶん死んでた。やる気が強烈じゃなくても、普通に命をかけてしまう仕事だったのである。そして他の仕事も大概そうだったのに違いない。医学はその意味で命をかけるという観念を葬った。いまは仕事は死にかけながら続けるものみたいなものになりつつあり、一番残酷な「たっぷり苦しんでから死ぬがいいがっはっは」みたいなことをいわれ続けている気がするものになってしまった。

だから、自分に対する決心が直ぐさま「この世」への恨みに切り替わりがちである。

親となることは、「この世」との関係を変容させられることであるのは屡々指摘されるところだ。それが、「身を捨てて」という決心として行われがたいのもイマドキである。恐怖を乗り越えられる程度というものがあるのだ。先生の職場がブラックだと言うが、正確には教育に関する事柄全てがブラックというか狂っている。学生が教師を志望しないことと、若者が親にならないことはたぶん同じことなのである。