★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

玉に枝、その他の差別

2021-10-24 23:40:16 | 文学


山がつの片岡かけてしむる野の さかひにたてる玉のを柳

山人が領有するしるしに立てた小柳の枝が玉を貫いた糸のようだ、というのだ。考えてみると、ただの玉ではなく、玉を貫く糸のほうに魂を奪われるのが、なんか悔しい。玉をもっと愛でた方がよくはないであろうか。玉の小櫛もそうだ。

白き綿の玉の如き
二羽のひよこが
ぴよぴよと鳴き、
その小さきくちばしを
母鶏の口につく。
母鶏はしどけなく
ななめにゐざりふし、
片足を出だして
ひよこにあまえぬ。
六月の雨上りの砂
陽炎の立ちつゝ


――與謝野晶子「無題」


モスラの幼虫が、東京タワーに繭を作ったときもそうであるが、たしかに玉だけでは美ではなくタワーが必要であった。ここでも母鶏が卵のようなひよこに足を出す。我々風景には、ほんとうは沢山のものが映りすぎているのだ。だから、なにか糸とか棒とか足とか出しながら、意識をなんとか美の中心にいざなうのである。だから、やはりみんな本当に好きなのは玉である様な気がする。こんなことを言っていると、つい天皇もそうじゃないかと言ってくる人もあるに違いない。

もっとも、これは美的領域に関する操作だ。似たようなものに差別の領域がある。玉ではないものを枝と認識してしまう領域のことである。我々の近代世界は、この種の勘違いを発展させてゆきかねない側面がある。それは抽象や代理表象といったものをロジックと思い込む形式論理のことである。例えば、明らかにおかしい政治家を選んでいる国民が問題だという主張があったとして、それを言われて責任をかんじちゃうのが我々である。代理表象の強迫である。しかしそれはただの制度性の前提を確認したに過ぎず、その場合自分の代理を変えて自分を変えた風に装うことが出来るのがむしろいいところなのである。代表面している人間達は、我々の代表であるとともにただの堕落しもするただの人間である。

学者が屡々言う「時代が変わった」というのは、かなりの率で「政府の方針が変わった」の代理的言い換えであるが、しかもそれを本当に忘れている場合がある。小さい頃は虫を触って平気なのに、大人になると駄目になる人がおおいのは、なにか教育に問題があるような気がする。むしろ逆にならなくてはならないのではないだろうか。虫は、我々の代理表象にならないから不快なのである。「蠅男の恐怖」の時代からセンスはかわっていないわけである。

多様性を認めるというのはある意味でいい加減になることである。分類とそれに対応すること(代理のこと)を考えるのが頭のよい使い方じゃない。ほんとはこういうの小学校高学年ぐらいで気付くんだが、それをまた押し戻す教育がある。中学辺りで、やたら意味不明の欲動や不満を押さえ込むための形式論理を強いられている。記号には強いがコミュニケーションには弱いみたいなのが典型として語られがちだが、実際は形式論理しか分からないタイプと言うべきで、形式論理を強いる教育の効果という側面が大きい。そこに抵抗する人間は、場合によっては発達障害者に入れられているのかもしれない。

多様性を担保するための工夫は、そういう形式論理の跋扈する社会では、個別の症状への神経質なケアとなる。しかしそれは、ある種の達人にしか可能でなく、できるのはおおらかさへの道ぐらいではなかろうか。教育はいまのところ前者しか教えておらず、もちろん、教科と同じくほとんどが落ちこぼれるわけで、個別へのケアは個別への差別となりがちなのである。

おおらかさを失うということは、さきの記号対コミュニケーションのような二項対立を煽るものである。例えば、家庭が居心地のよい場所だからこそ外での荒波に耐えられるという論法、たぶんそういう場合も多いと思うが、実際は、内と外で急に人間の行動は切り替わっていない。しかし家庭と世間の二項対立がはじまってしまっては、取り返しがつかないのだ、そんな全面的対立がないことを否認し続けるから、内面でなにやら夢を見続けるしかなくなるのである。仕事や学校であっても居心地の良さは大事に決まってるわけで、家庭でのそれも同じようにその実現は非常に難しいわけだ。家庭の方が少人数だからうまくいくというのは幻想である。

我々はしばしばそうやって出来上がった内面をアイデンティティと錯視する。その結果、上の場合は家庭への幻想的な愛は、外部への「差別」となって認識される。すなわち我々の差別とは、単なる観念的思い込みではなく自らのアイデンティティの裏面に過ぎないことがおおいわけで、思い込みを消すことではなかなかおさまらない。当たり前であるが、違いを認め合う、ことでは尚更おさまらない。対立がかえって深まってしまうのである。むしろ、現実的には共通点を見出すことで仲間意識が生じることぐらいでしか事態が好転するのをみたことはない。みんなちがってみんなイイは、みんなちがって俺とはちがう、になりがちで、だからみんなちがってみんなダメのほうがまだましなのである。