★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

虹の親密さ

2021-10-20 23:52:44 | 文学


さらにまたそり橋渡す心地して をふさかかれる葛城の峰

役行者が鬼神に橋を架けさせようとして失敗したという話をふまえて、「さらにまた」かかったをふさ(虹)を幻視する西行であるが、坊「反り橋」を「渡す心地して」というところが、虹が渡る美しい動きを想像させていいかんじである。「をふさかかれる」云々があとに来ているのもいい。時間がまわっている感じがする。

日本文芸の特色、――何よりも読者に親密(intime)であること。この特色の善悪は特に今は問題にしない。

――芥川龍之介「文芸的な、余りに文芸的な」


芥川龍之介がいうこの「親密」さも、西行が「をふさかかれる」と言うことに通じているような気がする。芥川はこれが善悪の問題にかかわっていることにも気づいていた。小林秀雄も「親密さ」を重要な概念として語っていたが、善として扱いきったわけではなかった。――実際は、親密さを押し出せば何か問題が解決するように感じる癖があるように思う。

虹がかかればいいのかよ、ということだ。

当たり前だが、人間の集団というのは、かならずいろいろと気の回らず仕事ができない人間を、出来事の多様性による「いざという時」のためにとっておき、普段は迷惑がかからないように排除せずにほっておくことが必要である。しかし、いまは全員が最高のパフォーマンスをとかいうから、そういうほっとかなければならない人間がかえって悪いパフォーマンスをするし、そこででた負債を掃除する仕事が他の人間に降りかかる。当たり前の話である。要するに、我々は組織論ではなく人間観がおかしくなっているのである。多様性?の総活躍とかいう発想は、全体主義的でもある以上に、非常に人間どうしの付き合い方の点で不自然である。

もっとも、人間の集団だから、かならず、最小限の人員で効果を出そうとして失敗してきた歴史があるに違いない。そんなときに、「虹がかかりました」みたいな感想は果たして意味があるのであろうか?親密さは、失敗するときには、かならず、ほっとかなければならない人間を動員する時に使われたりするから厄介だ。そして、その優しさが、ほっとかれそうになる危機感を持つ人間のコンプレックスを刺激する。刺激された人間は、自分が嬉しかった「虹」を連呼するようになるのだ。

要するに、弱者への対策が、親密さをフックにした支配を生み出すことを懸念しているのである。ガキ大将への対処がそうであるように、強者への対策は勇気がいるしすぐ効き目があることをしなければならない。弱者のほうもほんとうはそうなんだが、そうでなくてもよい言い訳がたくさん見つかってしまうのもよくない。「虹」もそのひとつである。