古畑のそばの立つ木にいる鳩の 友よぶ声のすごき夕暮れ
すごしというのは訳しにくい言葉のようにおもわれる。いまのスゴイよりもぞっとする荒涼とした恐ろしさに近いようだが、鳩が友を呼ぶ声なのであまりにそのことを強調するとホラーみたいなニュアンスになってよくない気もする。すごき雰囲気は、古畑のそばに立っている木ですでに出ていて、それと鳩が重なっている?とはいっても、更に「すごき」をつけているところに西行の気合いが感じられる。
以前「心が叫びたがってるんだ」というアニメーションを見たことがあるが、内容は忘れてしまったが、心が実際に叫ぶのではなく、心の叫びが他人事のように動いてしまう不気味さを感じたことを思い出す。
ここには友などの他人がいるからである。「心が叫びたがっている」というのは、まだ抑圧がかかっている。すなわち、「友よぶ」という強いられた何かが抑圧されている。もっとも西行は、いちおう全て捨ててきているのだから、それが自己愛にもマゾヒズムにも流れないですんでいるわけである。捨てていない我々は「すごき」といってもホントはそう思っていないのではないかという欺瞞を孕んでしまう。だから「叫びたがっている」としか言えないのではあるまいか。
このまえ阿部寛と藤澤恵麻主演の『奇談』を観返したが、藤澤氏のデビュー以来のちょっと俳優らしくない演技は、物語上のリアリティよりも、現実のリアリティに沿った――つまり個人的な体の動きに沿った演技なのだと思う。この人は、例の科捜研の女の人みたいに、物語になんだか優しい異物として寄り添ってしまうより、より現実の方に寄り添ってしまったパターンだ。これは、なかなか兆候的だったと思うのである。虚構であるか現実であるかの区別の消失は、読者が自らの想念を虚構と対比しないところから生じる。「叫びたがっている」というのも、現に叫んでしまえば、現実と化してしまう欲望が、叫びたがっているとなれば、虚構にとどまれる。
我々の社会が、口先だけの抱負を述べるばっかりのまるで、義務教育中の子どもみたいになっているのも、当然である。彼らは「叫びたがっている」と言えばすむのである。いうまでもなく学校とは虚構であるからだ。学校のなかの自分は現実であるにもかかわらず。
塗板がセンベイ食べて
春の日の夕暮は静かです
アンダースロウされた灰が蒼ざめて
春の日の夕暮は穏かです
あゝ、案山子はなきか――あるまい
馬嘶くか――嘶きもしまい
たゞたゞ青色の月の光のノメランとするまゝに
従順なのは春の日の夕暮か
ポトホトと臘涙に野の中の伽藍は赤く
荷馬車の車、油を失ひ
私が歴史的現在に物を言へば
嘲る嘲る空と山とが
瓦が一枚はぐれました
春の日の夕暮はこれから無言ながら
前進します
自らの静脈管の中へです
――中原中也「春の夕暮れ」
現実がわれわれをもっと苛めれば、もういっかい中原中也みたいな夕暮れがやってくるかも知れない。我々が虚構の中で苦しんでいるのも、ネットやらがなにか虚構に物質感を与えているにほかならない。