
近うて遠きもの。宮のべの祭。思はぬはらから、親族の中。鞍馬のつづらをりといふ道。
師走のつごもりの日、正月のついたちの日のほど。
これと次の段は続けて読むべきだ。
遠くて近きもの。極楽。舟の道。人の中。
近くて遠いものと遠くて近いものは、実際は意識の持ち方がどちらかにあるだけで大きな違いがあることを示す。前者は実際は近いことを否定できず、後者は遠いことを否定できない。否定できないものに我々はプレッシャーを受ける。その結果意識は反対方向に逃げて行く。師走から正月の間だって、期待の長さとは言い切れない。正月はそれなりに気を遣う日であって、忙しいのだ。逆説はこういう身もふたもない現実を隠してしまう。これに比べると、遠くて近きものの最初に極楽を持ってきたのは、意識というより魂というものが感じられる。近いというのは、時間とか距離の問題ではなかった、相即相入みたいな関係なのである。
ここでは美も用のなくてはならぬ一部である。だがいかに今の多くの作は、誤った美のために用を殺しているであろう。否、用を無視するが故に、美もまた死んでくるのである。正しい工藝においては真に用美相即である。美が用をしてますます活かしめ、用が日に日にその美を冴えしめる。
――柳宗悦「工藝の道」
「用美相即」という宗悦であるが――思うに、即を用いた論理が魂を失うのは、こういう風に日常的な場面の説明に使われたからではなかったであろうか。その意味で、日常にはあまりにも使えない西田幾多郎は偉大であった。