夜中、暁ともなく、門いと心かしこうももてなさず、何の宮、内裏わたり、殿ばらなる人々も出であひなどして、格子なども上げながら冬の夜を居明して、人の出でぬる後も見出したるこそ、をかしけれ。有明などはまして、いとめでたし。笛など吹きて出でぬる名残は、急ぎても寝られず、人の上ども言ひあはせて、歌など語り聞くままに、寝入りぬるこそ、をかしけれ。
新古典全集だと百七十二段は、女房が実家に帰って里居したときに、男の来客があったときなどの少し面倒なやりとりなどが書かれていて、源氏物語などにはないリアリティだと思う。とはいえ、「笛など吹いた客が帰ってしまったあとは、人の噂話とか歌とか語り合って、寝入ってしまうのはおもしろいね」とは、どこぞの部室かっ、と思わざるを得ない。
今日は、昼下がりに高村光太郎の「東洋的新次元」などを反芻し直してみた。
東洋の詩は世界の人の精神の眼にきらめくだらう。
夏の雲のやうに冬の星のやうに、
朝の食卓の白パンのやうに、
夜の饗宴のナイフのやうにフォクのやうに。
続く詩「おれの詩」なんかでも、「おれの詩は西欧ポエジイに属さない」と言いながら、結局どこが属していないのかわからないどころか、日本版「西欧ポエジイ」そのもののように見える。上の東洋もそうだ。で、清少納言に帰ってみて、どこに我が文化があるのか?と目を凝らしてみるのだが、少なくとも上のような繊細な日常描写のなかには容易に見つからない。
わたくしの場合、二十代の頃、――結局我々の文化は少数の「論理」的営為の中にしかないのではないかと当たりを付けたことの尾を引いているのかもしれないが……。