紙には、物も書かせ給はず、山吹の花びらただ一重を包ませたまへり。
それに、「言はで思ふぞ」と書かせ給へる、いみじう、日ごろの絶え間嘆かれつる、皆慰めて嬉しきに、長女も、打ちまもりて、「御前には、いかが、物のをりごとに思し出で聞えさせ給ふなるものを、誰も、怪しき御長居とこそ、侍るめれ。などかは参らせ給はぬ」と言ひて、「ここなる所に、あからさまにまかりて参らむ」と言ひて去ぬる後、御返事書きてまゐらせむとするに、この歌の本、更に忘れたり。
「いとあやし。同じ古事といひながら、知らぬ人やはある。ただここもとにおぼえながら、言ひ出でられぬは、いかにぞや」など言ふを聞きて、小さき童の前に居たるが、「下行く水、とこそ申せ」と言ひたる。など、かく忘れつるならむ、これに教へらるるも、をかし。
童の教えてくれたのは、「心には下ゆく水のわきかへり言はで思ふぞ言ふにまされる」(古今六帖)で、あたりまえであるが、「申せ」といいながら、「のわきかえり」まで言って居ないところがいいのである。「言はで」ということはこの際守られなければならないのであった。
問題は心なので、言葉の組み合わせで何か面白いものが出来たとしても、――基本は心は言わないに越したことはない、言うと表現できない、ということがある。われわれはこの頃そういう自明のことまで忘れがちになる。
太宰なんか、「走れメロス」で、メロスが「言うな!」というせりふを、猜疑心の塊である王さまに対して言っている。この「言うな!」は、物語の最後まで効いている。讒言も陰口も心ではなく言葉であり、王さまはこれに怯えている。こういうタイプに対してはまず「言うな!」と言わなければならないのである。
一方、喋りすぎる人がいる。
「物言ふ術」の心得第何条かにかういふ文句がある。(サンソンの『演技論』)
――知つてるやうな風をするな。考へるやうな風をせよ。
なかなか面白い注意である。
――岸田國士「物言ふ術」
岸田國士氏はものを言い過ぎたタイプである。演劇をやっていたからかもしれない。太宰のように、「言うな!」「信じろ」と戦時中言っていると本当に見るべきところを忘れることだってある。だから一般論として、心だけに注目すべきではないというのも事実であろうが、「考へるやうな風」だけをすれば自己欺瞞は必然だ。戦後繁茂したのは、こういう態度である。
わたくしも昔、学校で舞台に立ったとき、すごく追い詰められた気がしたものだ。必死に何かをしゃべって、迫り来る壁みたいなものをはじき飛ばそうとする。一流の役者になると、心がわきかえるかんじも表現してしまうからすごいんだけれども……。我々は、そういうことを真似すべきではないと思う。