はしたなきもの。異人を呼ぶに、我ぞとてさし出でたる。物など取らする折は、いとど。おのづから人の上などうち言ひそしりたるに、幼き子どもの聞き取りて、その人のあるに言ひ出でたる。
あはれなることなど、人の言ひ出で、うち泣きなどするに、げに、いとあはれなり、など聞きながら、涙のつと出で来ぬ、いとはしたなし。泣き顔作り、気色異になせど、いとかひなし。めでたきことを聞くには、まづただ出で来にぞ出で来る。
「我ぞとさし出でたる」には、その肉体的な動きまで感じられてこれは現代語訳ではかんじがでない。他人を呼んだのに自分だと思って顔を出してしまった。とでも訳すのであろうが、どうしても、動作と心理が別に記述されるのがあまりしっくりこない。
「めでたきことを聞くには、まづただ出で来にぞ出で来る」も、出てくるのは涙なんだが、これが記されていないことによって、出る感じがじつにそのひょろひょろしたものに思えて面白いと思う。確かに、悲しいことでは涙が出てこないのに、喜ばしいことではすぐに出てくるのだ。なんだかわからない。
複雑な感情が涙を出させるのだとわたくしは最近まで思っていたが、そうでもないかもしれない。小林秀雄の講演集を久しぶりに聞いていたら、人は常に一つのもんだ、二つなんかに分かれているはずがない、と言っていたので自信がなくなってきたのである。そうか、記憶の問題か、といろいろ考えてもみたんだが、どうもよくわからなくなってきたので、本居宣長でも読んでみるかと思っていたら、日が暮れた。
今日は、忙しかったのである。文学の視点において過去は重要である。この前の論文では、意図的にそのことは無視していたのだが、次回は考えてみたい。