恐ろしげなるもの
橡のかさ。焼けたる所。水ふふき。菱。髪多かる男の、頭洗ひてほすほど。
考えてみると、ドングリの傘、焼き芋、オニバス、菱の実などが、なぜ恐ろしく感じるのか不思議である。フロイトなら、それはすでに髪の毛が多い男が髪を乾かすような姿が否認されて不気味なものとして顕れているのだとかいいそうなもん(←適当)である。それは冗談であるが、不思議なことには変わりない。
これに比べれば、人間界での差別など、その原因を自覚できる類いであり、よけいに差別をドライブしてしまうのであろうが、なんとか個人レベルでは押さえ込めないことはないと思うのだ。ただ、これは可能性であって、どうなるか分からない。そんな畏怖は捨ててはならないと思う。最近は、怒りやルサンチマンの原因をテレビで図式的に説明していることもあるが、心の世界を舐めているなあと思う。心や教育について科学的な知見が流通すると、我々は対象を舐めるようになったのだ。これは八幡山を恐れなくなったのとは違い、どうしようもなく決定的なことである。
基本的に、子どもの教育とか家庭内の関係なんか、絶対にうまくいくはずがないのである。そんな基本的なことも忘れるから社会が壊れるのである。のんびりした気分を喪失した人間関係は必ず桎梏となる。浅はかな操作的な行為は逆効果だ。コミュニケーションがうまく行かなかったからといって、そんなのは人間の通常運転だ。過剰にどうにかしようという輩がどんどん事態を悪化させて行く。反省をすぐに言わせる学校的なやり方は最初のさしあたりの秩序維持という方便を忘却することによって本当の言論統制となる。
ああ神よ! もう取返す術もない。私は一切を失い尽した。けれどもただ、ああ何といふ楽しさだらう。私はそれを信じたいのだ。私が生き、そして「有る」ことを信じたいのだ。永久に一つの「無」が、自分に有ることを信じたいのだ。神よ! それを信じせしめよ。私の空洞な最後の日に。
今や、かくして私は、過去に何物をも喪失せず、現に何物をも失はなかつた。私は喪心者のやうに空を見ながら、自分の幸福に満足して、今日も昨日も、ひとりで閑雅な麦酒を飲んでる。虚無よ! 雲よ! 人生よ。
――萩原朔太郎「虚無の歌」
確かに、こう言っていてもしょうがないから何とか策を打ち出そうとするのが人間なのだが、その策によって余計事態をこんがらがらせてしまうのが人間である。