★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

「ひそひそ話」の哲学

2020-02-01 23:42:01 | 文学


はづかしきもの 男の心のうち。いざとき夜居の僧。みそか盗人のさるべき隈に隠れ居て見るらむを、誰かは知らむ。暗きまざれに、偲びて物引き取る人もあらむかし。そはしも、同じ心にをかしとや思ふらむ。
夜居の僧は、いとはづかしきものなり。若き人の集り居て、人の上を言ひ笑ひ、謗り憎みもするを、つくづくと聞き集むる、いとはづかし。「あなうたて、かしかまし」など、御前近き人などの、けしきばみ言ふをも聞き入れず、言ひ言ひの果ては、皆うちとけて寝るもいとはづかし。
男は、うたて思ふさまならず、もどかしう心づきなき事などありと見れど、さし向ひたる人を、すかし頼むるこそ、いとはづかしけれ。まして、情あり、このましう人に知られたるなどは、愚かなりと思はすべうももてなさずかし。心のうちにのみならず、また皆、これが事はかれに言ひ、かれが事はこれに言ひ聞かすべかめるも、我が事をば知らで、かう語るは、なほこよなきなめりと、思ひやすらむ。いで、されば、少しも思ふ人に逢へば、心はかなきなめりと見えて、いとはづかしうもあらぬぞかし。いみじうあはれに心苦しう、見捨てがたき事などを、いささか何とも思はぬも、いかなる心ぞとこそ、あさましけれ。さすがに人の上をもどき、物をいとよく言ふ様よ。ことに頼もしき人なき宮仕へ人などをかたらひて、ただならずなりぬる有様を、清く知らでなどもあるは。


最近、上妻世海氏が『たぐい』所載論文で、「シンボリックーアルゴリズム言語」と「インデックスーミメーシス言語」の分離について語っていた。前者は原因と結果を記述できるが「現場」を記述できない。「ひそひそ話」はミメーシスを伴いインデックスに満ちている。これが後者であって、たとえば、『アーレント=ハイデガー往復書簡』(ひそひそ話)は読む者の文脈に置き換わる。「「ひそひそ話」は漏れ出し、ぼくにとっての「あなた」になりうるのだ」と上妻氏は言う。わたくしは、氏の論旨より、ここでハイデガーとアーレントの恋文集を持ち出してきたところが面白かった。

清少納言も「男の心のうち」を「はすかしきもの」とするのであるから、――男の心のうちは漏れ出しているのである。なぜ漏れ出しているかと言えば、女子の中では常に漏れているからである。

本当は、心のうちは漏れていない。

もっとも、「ひそひそ話」というものが存在している(ハイデイガーとアーレント場合はひそひそ話ではないんだが……)のは重要なことだ。対話というものは元来、こういうひそひそ話であるべきであるが、公開討論のような文芸誌の「対談」から5ちゃんねるにいたるまで、そういう対話が払底している。まだ、花田★輝の対話とは思えない罵倒とか、吉本隆明の「ちゃんと書き言葉に直してよ……」と思わせるおしゃべりなどには「ひそひそ話」の要素があった。いまは対談ですら合意形成とかを目標にしているのかと疑われる。

他人の言葉を家具みたいに扱う様は、われわれは本当に腐ったブルジョアジーになってしまったのだと思わざるを得ない。