写真は、航空機乗員養成所の受験票です。
ハゴイの海軍司令部にいる兵隊さんは、休暇の日にはトラックでソンソンへ遊びに来ました。
大部分の兵隊さんは、ジョーンズビーチの上方にあった遊郭街に足を向けていました。
白爺の家は、父も母も和裁を教えていたので、多くの娘さんが習いに来ていました。
兵隊さんは、娘さんと話をしたいのと、母親が作る家庭料理が食べたいので、よく白爺の家に遊びにきていました。
余談です。
皆さんは、遊郭の中知らないでしょう
白爺は、小学校の頃から、仕上がった着物を持って遊郭に通いましたよ。
届に行くと、お女郎さんが部屋に入れてくれて、キャラメルのお駄賃をくれました。
嬉しかったなぁー。
四畳半くらいの部屋に鏡台があって、長襦袢が掛けてあって、今思えば艶かしかったのでしょうが、当時はキャラメルしか目に入りませんでした。
小さいときに通ったから、大きくなってからは一度も行っていません。 これホント
余談おわり。
6年生になる頃には、戦局は厳しくなり、島を守っていた警備隊(海軍所属)の他に、陸軍の兵隊さんが来るようになりました。
白爺の家に近い、軍人会館に駐屯した人もいましたが、殆ど満州方面から転戦してきたようで、冬服のような軍服を着て苦労されていました。(虱取りとリンチのビンタに・・・)
海軍さんはスマート。陸軍さんは野暮ったい。航空隊は格好がいい。
白爺は、ここで運輸省の航空機乗員養成所を受験して、飛行機操縦士になることを決めました。
試験は、サイパンの武徳殿でありました。
一次試験は合格・・・
二次試験にドラマが待っています・・・。 乞うご期待
☆遊郭は、50軒くらいありました。沖縄系・朝鮮系イロイロありましたが、
テニアンホテルが一番高級なところでした。
赤線というイメージは無かったですね。
この区画は、通称ミナミと言っていて、大人は「一寸ミナミへ」と言っていましたよ。
隣組の町名も、南区と決まりました。
ハゴイの海軍司令部にいる兵隊さんは、休暇の日にはトラックでソンソンへ遊びに来ました。
大部分の兵隊さんは、ジョーンズビーチの上方にあった遊郭街に足を向けていました。
白爺の家は、父も母も和裁を教えていたので、多くの娘さんが習いに来ていました。
兵隊さんは、娘さんと話をしたいのと、母親が作る家庭料理が食べたいので、よく白爺の家に遊びにきていました。
余談です。
皆さんは、遊郭の中知らないでしょう
白爺は、小学校の頃から、仕上がった着物を持って遊郭に通いましたよ。
届に行くと、お女郎さんが部屋に入れてくれて、キャラメルのお駄賃をくれました。
嬉しかったなぁー。
四畳半くらいの部屋に鏡台があって、長襦袢が掛けてあって、今思えば艶かしかったのでしょうが、当時はキャラメルしか目に入りませんでした。
小さいときに通ったから、大きくなってからは一度も行っていません。 これホント
余談おわり。
6年生になる頃には、戦局は厳しくなり、島を守っていた警備隊(海軍所属)の他に、陸軍の兵隊さんが来るようになりました。
白爺の家に近い、軍人会館に駐屯した人もいましたが、殆ど満州方面から転戦してきたようで、冬服のような軍服を着て苦労されていました。(虱取りとリンチのビンタに・・・)
海軍さんはスマート。陸軍さんは野暮ったい。航空隊は格好がいい。
白爺は、ここで運輸省の航空機乗員養成所を受験して、飛行機操縦士になることを決めました。
試験は、サイパンの武徳殿でありました。
一次試験は合格・・・
二次試験にドラマが待っています・・・。 乞うご期待
☆遊郭は、50軒くらいありました。沖縄系・朝鮮系イロイロありましたが、
テニアンホテルが一番高級なところでした。
赤線というイメージは無かったですね。
この区画は、通称ミナミと言っていて、大人は「一寸ミナミへ」と言っていましたよ。
隣組の町名も、南区と決まりました。
昔の日本映画なんかで見たことがあります!
今も残っている遊郭跡を見ると、とっても素敵でハイカラな建物だったんだろうなぁ~
すいません…
…と思います(←中途半端~)
続きの2次試験、楽しみにしてます
日本庭園に池があって小さな橋も架かってたのをみたことあります。カフェがあった辺りが私達が住んでたとこ、、って日本時代じゃないですよ~。
白爺が上がったのも、そのホテルです。
ホテルといっても半分は遊郭。半分は宴会場。泊まるところはあまり無かったようだが・・。
南洋庁のエライさんや興発の幹部、それに高級士官の面々がここを利用していました。池にはメダカが沢山いましたよ!懐かしい~。
私がその近くに住んでた時は旦那の叔父さんが小さな家を建ててそのテニアンホテル跡に住んでて時々遊びに行きました。
私も懐かしいです!
当然あるはずもなく、無い旨を伝えると
「昔は2軒くらい赤線あったんだがなぁ」と言っていました。
白爺さまの書き込みを読むとやはり何軒かあったようですね。
ちなみに私の祖父は満鉄(満州鉄道)で働いていて、シベリアへ抑留されていたそうです。
50軒以上あったでしょう。
あの区域は通称ミナミといっていて、遊びに行く人はミナミに行くといっていました。
そのうち町名も南区になりました。
レバサシ様のおじい様も、シベリアでは大変なご苦労をされたのでしょうね・・。