Naked Heart

その時々の関心事をざっくばらんに語ります

太平洋戦争開戦の日

2005年12月08日 23時43分42秒 | 時事・社会
ジョン=レノンが亡くなって、ちょうど25年。
と切り出しておいてなんですが、ジョンやビートルズについて
語れるほどのものは無いので、太平洋戦争開戦のお話を。

以前にも書きましたが、太平洋戦争の開戦は、真珠湾攻撃では
なく、マレーシア(当時はイギリス領)北部のコトバル上陸です。
そしてその後の主戦場は、シンガポールやフィリピンといった
東南アジアでした。
「太平洋戦争」と言うと「日米戦争」だけがクローズアップされます
が、そうした流れを見れば「アジア・太平洋戦争」と呼ぶべきとの
主張はもっともだと思われます。
ただ、当時の日本の指導者たちにも、対米戦争という認識しか
無かったと思われる節はあります。石油の輸入を米国に依存して
いたこと、日米交渉の決裂が開戦を決定付けたことなどからして、
当時も現在と変わらず、米国だけが世界であるかのような認識で
外交も戦争もやっていたのでしょう。対抗から追随に態度を変えた
だけのことです。

さて、日米開戦といえば、真珠湾攻撃は「だまし討ち」であったか、
ということが日本ではいまだに議論されています。
そもそも真珠湾より前に「開戦」しており、そのことは駐米大使を
通しての通告には全く考慮されていなかった点で、「だまし討ち」
であったことは明らかなのですが(少なくとも「過失による遅れ」
では済まない根本的な問題を含んでます)、米国側もそれまでの
外交的中立を放棄して参戦するために、日本が先に仕掛けてくる
のを待っていた(挑発した)という面もあり、開戦も奇襲も「やむを
えなかった」とする主張が日本では幅を利かせています。
しかし、見逃してはならないいくつかの問題があります。
まず、開戦は12月1日の御前会議で最終決定されました。それ
以前に、方針は固まっていたといえます。そして海軍機動部隊も
既に行動を開始していました。「最初の爆弾を落とす前か後か」
といった議論に意味があるとは思えません。
第二に、駐米大使の通告の内容は、対米交渉の打ち切りであり、
「宣戦布告」と呼べるものではなかったのです。当初の予定通りに
渡されていれば問題が無かったわけではありません。
実際、天皇の「宣戦の詔書」が発せられたのは攻撃開始の8時間
後であり、日本の米国大使にも改めて「宣戦布告」が通知されて
います。
第三に、宣戦布告無しの奇襲は日本軍の常套手段でした。真珠
湾は特殊事例ではないのです。

そしてもう一つ見逃せないのは、米国人にとって真珠湾攻撃は
「テロ」であった、ということです。米国が直接攻撃を受け、民間人
を含む多くの死者が出たことを、彼らは問題にしています。
つまり米国にとって対日戦争は「テロとの戦い」だったわけです。
米国もまた、当時も今も全く変わっていないと言わざるをえません。

今回の記事を書くにあたって、東海大学の鳥飼行博助教授の
ホームページの「真珠湾攻撃と日米開戦」という記事を参考に
させて頂きました。

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