2007年5月16日このブログを綴り始めた日です。姉が旅立った日からも、そして綴り始めた日からもリンクさせていただいている方々のご家族が旅立たれました。ご家族の必死の看護・介護を受けながら、感謝の気持を抱きながら。合掌。
「脳腫瘍の家族の交流の場」もリンクを快諾していただいているご本人のサイト、サポートされているご家族の方々のサイトから多くのことを学ばせてもらっています。看護・介護していた頃は精一杯取り組んだと思いますが、今、考えれば姉に出来たことはもっといっぱいあったと思います。本当は姉のことをもっと綴らねばなりませんが。姉が病に向き合っている姿を思い起こすのが辛いこともあります。病に向き合うご本人、ご本人を支えるご家族の方々のブログ(サイト)から学んだ事は、決してお一人で悩むこともありませんし、お一人で抱え込む必要もありません。拙いブログですが綴ってまいりたいと思います。今後ともご支援を宜しくお願いいたします。
「脳腫瘍の家族の交流の場」もリンクを快諾していただいているご本人のサイト、サポートされているご家族の方々のサイトから多くのことを学ばせてもらっています。看護・介護していた頃は精一杯取り組んだと思いますが、今、考えれば姉に出来たことはもっといっぱいあったと思います。本当は姉のことをもっと綴らねばなりませんが。姉が病に向き合っている姿を思い起こすのが辛いこともあります。病に向き合うご本人、ご本人を支えるご家族の方々のブログ(サイト)から学んだ事は、決してお一人で悩むこともありませんし、お一人で抱え込む必要もありません。拙いブログですが綴ってまいりたいと思います。今後ともご支援を宜しくお願いいたします。
沖縄からです。
私の主人ですが、10年前に脳腫瘍の手術をし何事もなかったかのような平穏な日々をすごしてきました。
丁度、生命保険関係でも切り替えの年度がきまして、
主人は病気の事も多分、頭にはなかったのでしょう?
友人の勤める別の生命保険会社と契約してしまい・・5ヶ月後に突然痙攣発作を起こし、その保険会社からは、告知義務違反と言う事で契約排除になってしまいました。
友人には、以前入っていた保険証券等も見てもらい
確認して入ったとの事でしたが、私に対するその方の言い分は、一切病気の事は知らなかったとの一転張りで・・・主人に対して謝罪弁など全くなし・・・
今の所、体調もかなり良くなり普通の生活をしてます。
病と向き合うには、やはり保険もあってこそなんですが?皆さんは、どういう風にお考えですか?
すみません・・・誰かに聞いてほしくて・・・意見が聞きたくて・・・・
鍵になりそうですね、保険の事が上手く進むことを願っています。テレビでもこれでもかこれでもかと保険のCMが流されています。癌の保障がいくらとも記されていますが、ご本人にとって確かに保障は有り難いでしょうが、心のケアってなされるのでしょうか。コメント有難うございました。今後とも宜しくお願いいたします。
なさってくださいね!
小倉で保育士をしながら一人暮らしをしていた娘(当時24歳)は、その一週間ほど前から肩凝りと頭痛と吐き気に悩まされていました。保育士にとっては職業病のようなものです。いつものように整体院に行ってもなかなか痛みがとれず、整形外科を紹介されました。しかし、そこでレントゲンを撮っても異常がなく、その病院から救急病院を紹介され、そこで脳腫瘍が発見されました。
11月2日のことです。25歳の誕生日の3日前でした。
病院からの突然の電話で、取るものもとりあえず、大分から病院に駆けつけた私は、そのままその病院で退院するまでずっと娘に付き添いました。激しい痛みと嘔吐、薬も効かず夜も眠れない娘がそこにいました。CTの結果、脳がかなり腫れMRIも取れない状態。今思い出しても本当に辛い日々でした。脳圧を下げる為グリセオールを連続して投与。1週間後にやっとMRIが撮れる様になり、その結果悪性の星細胞腫であろうと言われました。
その腫瘍も、かなり大きく、手術でも全部は取りきれないけれども、取れるところは取って、後は放射線治療と化学治療で、ということになりました。
血管の細い娘は、採血や点滴の針もさせなくなるほどでした。
手術は入院後3週間目の23日。前日のMRIで、その腫瘍が入院当時より2倍ほどの大きさになっているといわれ、主治医からは最も最悪の膠芽腫の可能性が大きいといわれました。細胞診の結果は、先生の予想通りでした。腫瘍は半分以上も取れないままでした。点滴は胸からするようになりました。
12月12日からの放射線治療30回、同時にテモダールの投与。1月29日まで続きました。最初は、副作用で具合の悪い日もあったのですが、次第にそれも落ち着き、点滴も取れ、土日の外泊もできるようになりました。
放射線が終わってしばらくは調子もよく平日の外泊もできたのですが、2月の中旬に、激しい痙攣発作がおき、左半身に麻痺が出て、大量のステロイドや痛み止めの投与、グリセオールも1日4回に増えてしまいました。もちろん点滴は腕からできず、胸からになりました。それが1ヶ月続き、体重は10キロ以上増えてしまい、顔もムーンフェイスに。
3月になり、MRIの結果、腫れもそんなに酷くなく、腫瘍も大きさは変わらないものの、本人の調子もよいので点滴もはずすことができました。リハビリも再開し、食欲もでて、軽い発作はあるものの、すぐによくなる日が続きました。
そんな中、3月の終わりに主治医から「娘さんはあまり長くがんばれないかもしれないから、今調子のいいうちに退院して、家族と一緒に過ごして好きなことをさせてあげなさい」と言われました。
退院後は大分に帰る事を告げ、主治医が知っている病院を紹介してもらえることになり、4月4日に退院しました。その後、二週間して、娘が大学時代から7年間過ごした小倉を離れ、大分に帰ってきました。
主治医が紹介してくれた病院は、第1次急性期の病院だった為、対応ができないと言われたのですが、たまたま診察に行った日に大学病院から来ていた現在の先生が、大学病院で見てくれることになりました。緊急の場合は、すぐ近くの脳外科でも見てもらえるようになりました。
退院してもうすぐ2ヶ月になります。
テモダールも5クール目が終わりました。インターフェロンも大学病院になってから投与するようになりました。
MRIでは腫瘍も4月の時とあまり変化はないようです。ただ、ステロイドやオキシコンチンなどかなりの量の薬が毎日あります。
今回のテモダールで、初めて具合の悪さを訴えています。食欲も余りありません。
入院当初の痛みが酷い時と、発作がきた時以外は食欲もあった娘です。テモダールの副作用が出ているのだろうということですが・・・。
何をどうしてあげれば良いのか、言葉でしか娘を支えることができないことに歯がゆさを感じます。
取り留めのない事を書いてしまいましたが、同じような状況にある方のお話しをお聞きしたいと思っています。どうぞよろしくお願いします。
私ごとですが。。
2月24日ひさしぶりに実家に行ったら元気だった父が息が苦しいと言うので病院に連れて行きました。採血、レントゲン、心電図と、検査をして即入院。主治医の説明の時重篤な状態と聞いてたけど、治療してよくなって退院すると思っていました。
昨日からもう手のほどこしようがないと、言われ今はステロイドホルモンの点滴で少しでも呼吸が楽になればよいのですが。。
あっという間のことで
正直ショックです。
でも、不思議と気持ちが冷静で家族会議の結果苦しみだけの中で旅立ちよりせめて安らかな旅立ちの方がよいのではと言うことにまりました。
今日の夕方子供達にも事情を話し改めてお見舞いに行きました。
呼吸器だけで生きている父は苦しそうだけどそこでは涙はなく、語りかけると言葉にならない声で答えてくれました。時には冗談を言て皆で笑ったりしてなんか不謹慎だけど温かい気持ちです。
本当に不思議でちょっと感動です。子供達に感謝しました。
現在元気であっても、病気で余命があっても、死は平等にありいつ直面するかわからない。と思った。
明日も家族で父に会いにいきます。
拭ってあげることもよし、貴女の想いはきっときっと
お父様に通じると思います。投稿のお時間も遅いですよね!ご心配が尽きぬとは思いますが、貴女も横になれるときは横になってお身体大切になさってください
ね!お大事にね!