竹内しげやす 市政チャレンジ日記

新米議員から四期目を向えて市政にチャレンジする奮戦記。
一歩一歩目標に向け前進する日々の行動を日記風に。

平成30年度 春の文協まつり 「華道展」

2018年05月22日 | 文化・教養
平成30年5月22日(火)
お早うございます。

<5月22日今日は何の日>
1333年5月222日  東勝寺合戦で敗れた鎌倉幕府の得宗北条高時ら北条一族が自決。鎌倉幕府が滅亡。

東勝寺合戦(とうしょうじがっせん)は、鎌倉時代末期の1333年(元弘3年、正慶2年)に相模国鎌倉(現在の鎌倉市)で行われた戦い。
1331年(元弘元年、元徳3年)から開始された後醍醐天皇の倒幕運動である元弘の乱の最後の戦いで、鎌倉幕府は滅亡した。
東勝寺は、第3代執権の北条泰時が退耕行勇(たいこうぎょうゆう)を開山として葛西ヶ谷(鎌倉市小町)に創建した北条氏の菩提寺である。

 各地で敗走した鎌倉勢は、鎌倉の七切通しを封鎖。
新田勢は関口を本拠に、小袋坂、化粧坂、極楽寺坂の三方から攻撃することとし、義貞はそれぞれの指揮を執る将を新田一族で固めた。
小袋坂は山側で鎌倉勢の執権・赤橋守時が守るのに対し新田勢は堀口貞満らが攻めた。
中央の化粧坂には金沢貞将に対し新田義貞、脇屋義助が率いる主力が攻める。
七里ヶ浜に面する海側の極楽寺坂は大仏貞直が守り、大舘宗氏らが攻めた。戦いは膠着し、小袋坂では当時の執権赤橋守時(北条守時)を自害させたが、極楽寺坂では指揮を執る大舘宗氏が戦死するほど苦戦する。

 義貞は切通しの突破を諦めて、干潮を利用しての稲村ヶ崎から海岸線ルートでの鎌倉侵攻を試みる(室町時代に成立した軍記物語『太平記』によれば、義貞が海神に祈願すると潮が引き、新田勢は由比ヶ浜へ進入、鎌倉へ進攻できたとされる)。
背後を突かれた形となった幕府軍は鎌倉市街や切通しなどで大仏貞直、大仏宣政、金沢貞将、本間山城左衛門、そして他に第13代執権の普恩寺基時(北条基時)などが戦死した。

 北条高時らは東勝寺に追い詰められ自害した。
『太平記』によれば寺に篭った北条一族と家臣は、長崎高重、摂津道準、諏訪直性ら北条被官から順にそれぞれ切腹、最後に高時、舅の安達時顕と自害したという(内管領の長崎高資、その父長崎円喜、第15代執権の金沢貞顕(北条貞顕)など)。
『太平記』には、自害した人々は283人の北条一族と家臣、後に続いた兵を合わせて総数870人余人とあるが、文学的誇張もあると推察される。高時らの自害を知った安東聖秀らもまた、降伏勧告を拒絶して市中で自害した。

東勝寺跡の奧にある北条高時腹切りやぐら


東勝寺の旧寺城


「平成30年度 春の文協まつり 「華道展」の作品を何点か紹介いたします。



















沢山の作品が展示されていました。お花を観賞しながらのお抹茶とてもおいしく頂きました。・・・ありがとうございます。




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