竹内しげやす 市政チャレンジ日記

新米議員から四期目を向えて市政にチャレンジする奮戦記。
一歩一歩目標に向け前進する日々の行動を日記風に。

今昔の三谷 ”三河大島監視26年”

2021年07月04日 | 一般
令和3年7月4日(日)
お早うございます。

さて今日は、今昔の三谷 ”三河大島監視26年”を取り上げたいと思います。
<今昔の三谷、過去の掲載>
・三谷町の賑わい ”六間道路”・・・・・2014年02月26日
・今昔の三谷 ”星越バイパス”・・・・・2015年12月11日
・今昔の三谷 ”蒲郡市の誕生”・・・・・2018年03月30日
・今昔の三谷 ”東前地区の埋立て”・・・2018年04月29日
・今昔の三谷 ”三河大島の島取り話”・・2021年05月03日

昭和27年から53年まで三谷町財産区の監視人を務めた竹内高一(こういち)氏のご子息の竹内秀幸 氏が、昭和53年11月に、当時の長谷部蒲郡市長に次のような手紙をあてた。

 秋冷の候、市長様にはお変わりなくお過ごしのことと存じ上げます。
さて、私の父高一は、終戦後に進駐軍が引き揚げたのを機に大島監視人としての役を任せられ、
電気も電話もない生活の中で、島の新鮮な空気と潮風に恵まれて孤島を守り続けてまいりました。
夏には海開きに備え、シーズン中には山林の整備に汗を流し、山火事、不法侵入者の見張りにと気苦労も多い毎日でした。
弱い体といえども、監視人としての職務は、一般の方以上に真面目に果たしてきました。
父は責任上島を留守にしたことはなく月に一度は食料品、医薬品等を仕入れに帰り、すぐツリ舟を頼んで島に戻ります。
私が6才の時からそのような生活で、男手のない家庭を守る母親の苦労も大変なものでした。
金銭的問題もありました。
父は自活自炊ですので食料品、日用品、医薬品、衣料品、船賃等の出費は避けられません。
毎月、父の給料の半分以上が島の生活の為消えてゆきました。
それでも、真冬の寒い北風の吹きさらす長い夜、凍りつくような冷たい日々、火の気の全くなく寒々と暗い部屋で、どうして暮らしているのか考えた時、ただ、一人で黙々と大島を守り続けてる父に感謝せずにはいられませんでした。
管財課より後継者難の為監視役を続けてほしいと云われ、一年、二年と島を去る時期を延ばし今日になりましたが、父も年老いて体力的にも限界がきましたので、昭和53年12月31日をもちまして退職させていただけるようお願い申し上げます。

この手紙を受け、竹内高一 氏には、長谷部蒲郡市長から、「あなたは、蒲郡市三谷町財産区の三河大島監視人として、多年にわたり精励されたご功績をたたえ、ご苦労に対し、深甚なる感謝の意を表します」と、感謝状および記念品が贈られた。



大島神社鳥居
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1 コメント

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竹内高一の姪です (秋本英子)
2021-10-19 16:50:29
初めまして。
 この度竹内しげやす議員様のサイトでアップして頂きましたかつての三河大島監視員の姪でございます。現在神奈川県に在住しておりますが毎年三谷には帰省しており弘法山から大島を眺め在りし日の伯父を懐かしんでおります。伯父は戦地で負傷し大変苦労をしたと母から聞いておりました。もう50年以上も前になりますが夏になると従妹の船で大島に行き伯父を囲んで賑やかに過ごした日々が懐かしく思い出されます。誰も知らない地味なお役目でしたが真面目に取り組んでいた伯父を誇らしく思ったものです。竹内議員様のサイトで今回取り上げてくださり熱く御礼申し上げます。伯父もきっと喜んでいると思います。今年も4泊5日で9月末から大塚のラグーナベイコートに宿泊しておりました。部屋からは大島、小島が良く見え伯父を偲びながらの良い旅になりました。本当に有難うございました

 竹内議員様のご活躍をお祈り申し上げます。

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