令和3年12月8日(水)
お早うございます。
さて今日から何回かに分けて、私、竹内しげやすの一般質問の全文を紹介いたします。
令和3年12月定例会 令和3年12月7日(火)
<質問要旨>
1、穂の国から新説 徐福伝説による、国際交流を始めとするまちおこしについて
(1)徐福伝説について
ア 徐福について
<以上が今回掲載した内容です>
<以下の項目は次回へ続く>
イ 日本各地に伝わる徐福伝説について
ウ 穂の国における徐福伝説について
(2) 穂の国について
ア 穂の国の成り立ちについて
イ 穂の国の代表的な遺跡について
ウ 安曇族と赤日子神社、赤日子遺跡について
(3) 穂の国の浪漫とまちおこしについて
2、市民病院の安定経営について
(1)現状について
(2) 今後について
(3) 新型コロナウイルス感染症患者の受入病床について
(4) 今後の診療体制について
(5) 新棟の進捗状況について
議長のお許しを頂きましたので、通告の順に従い質問させていただきます。
大きな1番、穂の国から新説 徐福伝説による、国際交流を始めとするまちおこしについて 順次伺って参ります。
私が今回この質問を取上げた理由は、歴史のある主婦の友社が販売している「中國紀行CKRM(ちゅうかろまん)」(令和3年8月31日発刊)という雑誌を三谷の元議員の大先輩から頂いたのがきっかけでした。
令和3年度12月定例会12月7日(第4号)の中に収納されています竹内滋泰一般質問パネル資料
議長の許可をえていますので、タブレットに入っている、
1枚目のパネルを御覧ください。
表紙に武田氏と徐福伝説と書いてあります。
武田信玄は良く知っていますが、徐福そのものをまったくしりませんでした。
この雑誌の中に、蒲郡の赤日子神社が紹介されており、「かつて蒲郡一帯は、穂の国とよばれていた」、そして、「徐福が辿り着いた平原広沢(へいげんこうたく)の地というのは蒲郡周辺、穂の国の地域ではないか?その「穂の国」が「日本書記」にでてくる「豊葦原千五百秋水穂国」(とよあしはらの ちいおあきのみずほのくに)あしが生い茂って千年も万年もこくもつが豊かにみのる国、そこが日本の中心である、豊葦原中国(とよあしはらのなかつくに)ではないかと述べています。
徐福と穂の国、そして古代の蒲郡に興味をいだくようになり、三谷の大先輩と親しく親交があり、徐福の研究をしている方にお話を聞かせて頂く機会を得ることが出来ました。紀元前100年頃の中国の歴史家である司馬遷の著書『史記』に、徐福という人物が登場いたします(「秦始皇本紀」(しんしこうほんぎ))。そこで、徐福という人物についてどのように認識しているか伺います。
ア) 徐福について
答弁) 徐福につきましては、中国の前漢時代の歴史家である司馬遷(しばせん)が編さんした『史記』の「秦始皇本紀(しんしこうほんぎ)」において、海中にある仙人が住むという地に向けて数千人の男女を連れて出航した「徐市(じょふつ)」という名前で記されている斉(せい)の国出身とされる人物と認識しております。
少し答弁を補足したいと思います。
タブレットの2枚目のパネル(佐賀市に立つ徐福の像)を御覧ください。
除福とはどんな人物か。徐福が最初に上陸した地、佐賀県佐賀市諸富町(もろどみちょう)に、2011年11月徐福が日本へ出航したという、中国の浙江省(せっこうしょう)慈渓市(じけいし)から贈られた像が立っています。
つづいて3枚目のパネル(徐福の生まれた地、出航地)を御覧ください。
この地図は、佐賀県の徐福物語というパンフレットに載っている地図です。
徐福が生まれた徐福村、出航地の慈渓市(じけいし)韓国の済州島(チェジュトウ)にも立寄り、日本で最初に上陸したと言われている佐賀市が載っています。地図の右側に徐福伝説のあらすじを載せてありますので読ませていただきます。
徐福の事績(じせき)は『史記』(しき)「淮南衡山列伝」(わいなんこうざんれつでん)に記されている。
紀元前三世紀、中国全土を統一した秦の始皇帝は次第に、神仙(しんせん)に傾倒するようになった。統一国家の成長を見届けぬままに寿命が尽きることを愁い、不老不死になることを求めたからだともいう。
そんな始皇帝に「東方の三神山に長生不老(ちょうせいふろう)の霊薬がある」と奏上したのが方士(ほうし)の徐福であった。方士とは瞑想や気功などなどの方術を用いる人々のこと。
古代中国において、方士は特殊な術を用いることで時の権力者からも信頼される存在であった。
そんな地位にある人物が奏じたのだから、始皇帝も本気になった。徐福のいう三神山とは、蓬莱・方丈・瀛州(ほうらい・ほうじょう・えいしゅう)のこと。それは渤海(遼東半島と山東半島に挟まれた内海)の先にある神仙が住むとされた山のことである。
さっそく徐福は命を受けて東の海へと出発した。
その時には3000人の童男童女(若い男女のこと)と百工(多くの技術者)と財宝に五穀の種子を詰めこんでいた。こうして船出した徐福一行が帰ってくることはなかった。平原広沢(広い平野と湿地)を得て王となったと記述されている。
この出来事は紀元前219年~紀元前210年頃のことと考えられている。
日本ではようやく長い縄文時代が終わり弥生時代を迎えた頃である。
卑弥呼が登場するのは、ようやくこれから400年ほど後のこと。
まだ日本には文字で記録されるような文明はなかった。そのためか『古事記』『日本書紀』には徐福に関する記述はない。
次回へつづく!
お早うございます。
さて今日から何回かに分けて、私、竹内しげやすの一般質問の全文を紹介いたします。
令和3年12月定例会 令和3年12月7日(火)
<質問要旨>
1、穂の国から新説 徐福伝説による、国際交流を始めとするまちおこしについて
(1)徐福伝説について
ア 徐福について
<以上が今回掲載した内容です>
<以下の項目は次回へ続く>
イ 日本各地に伝わる徐福伝説について
ウ 穂の国における徐福伝説について
(2) 穂の国について
ア 穂の国の成り立ちについて
イ 穂の国の代表的な遺跡について
ウ 安曇族と赤日子神社、赤日子遺跡について
(3) 穂の国の浪漫とまちおこしについて
2、市民病院の安定経営について
(1)現状について
(2) 今後について
(3) 新型コロナウイルス感染症患者の受入病床について
(4) 今後の診療体制について
(5) 新棟の進捗状況について
議長のお許しを頂きましたので、通告の順に従い質問させていただきます。
大きな1番、穂の国から新説 徐福伝説による、国際交流を始めとするまちおこしについて 順次伺って参ります。
私が今回この質問を取上げた理由は、歴史のある主婦の友社が販売している「中國紀行CKRM(ちゅうかろまん)」(令和3年8月31日発刊)という雑誌を三谷の元議員の大先輩から頂いたのがきっかけでした。
令和3年度12月定例会12月7日(第4号)の中に収納されています竹内滋泰一般質問パネル資料
議長の許可をえていますので、タブレットに入っている、
1枚目のパネルを御覧ください。
表紙に武田氏と徐福伝説と書いてあります。
武田信玄は良く知っていますが、徐福そのものをまったくしりませんでした。
この雑誌の中に、蒲郡の赤日子神社が紹介されており、「かつて蒲郡一帯は、穂の国とよばれていた」、そして、「徐福が辿り着いた平原広沢(へいげんこうたく)の地というのは蒲郡周辺、穂の国の地域ではないか?その「穂の国」が「日本書記」にでてくる「豊葦原千五百秋水穂国」(とよあしはらの ちいおあきのみずほのくに)あしが生い茂って千年も万年もこくもつが豊かにみのる国、そこが日本の中心である、豊葦原中国(とよあしはらのなかつくに)ではないかと述べています。
徐福と穂の国、そして古代の蒲郡に興味をいだくようになり、三谷の大先輩と親しく親交があり、徐福の研究をしている方にお話を聞かせて頂く機会を得ることが出来ました。紀元前100年頃の中国の歴史家である司馬遷の著書『史記』に、徐福という人物が登場いたします(「秦始皇本紀」(しんしこうほんぎ))。そこで、徐福という人物についてどのように認識しているか伺います。
ア) 徐福について
答弁) 徐福につきましては、中国の前漢時代の歴史家である司馬遷(しばせん)が編さんした『史記』の「秦始皇本紀(しんしこうほんぎ)」において、海中にある仙人が住むという地に向けて数千人の男女を連れて出航した「徐市(じょふつ)」という名前で記されている斉(せい)の国出身とされる人物と認識しております。
少し答弁を補足したいと思います。
タブレットの2枚目のパネル(佐賀市に立つ徐福の像)を御覧ください。
除福とはどんな人物か。徐福が最初に上陸した地、佐賀県佐賀市諸富町(もろどみちょう)に、2011年11月徐福が日本へ出航したという、中国の浙江省(せっこうしょう)慈渓市(じけいし)から贈られた像が立っています。
つづいて3枚目のパネル(徐福の生まれた地、出航地)を御覧ください。
この地図は、佐賀県の徐福物語というパンフレットに載っている地図です。
徐福が生まれた徐福村、出航地の慈渓市(じけいし)韓国の済州島(チェジュトウ)にも立寄り、日本で最初に上陸したと言われている佐賀市が載っています。地図の右側に徐福伝説のあらすじを載せてありますので読ませていただきます。
徐福の事績(じせき)は『史記』(しき)「淮南衡山列伝」(わいなんこうざんれつでん)に記されている。
紀元前三世紀、中国全土を統一した秦の始皇帝は次第に、神仙(しんせん)に傾倒するようになった。統一国家の成長を見届けぬままに寿命が尽きることを愁い、不老不死になることを求めたからだともいう。
そんな始皇帝に「東方の三神山に長生不老(ちょうせいふろう)の霊薬がある」と奏上したのが方士(ほうし)の徐福であった。方士とは瞑想や気功などなどの方術を用いる人々のこと。
古代中国において、方士は特殊な術を用いることで時の権力者からも信頼される存在であった。
そんな地位にある人物が奏じたのだから、始皇帝も本気になった。徐福のいう三神山とは、蓬莱・方丈・瀛州(ほうらい・ほうじょう・えいしゅう)のこと。それは渤海(遼東半島と山東半島に挟まれた内海)の先にある神仙が住むとされた山のことである。
さっそく徐福は命を受けて東の海へと出発した。
その時には3000人の童男童女(若い男女のこと)と百工(多くの技術者)と財宝に五穀の種子を詰めこんでいた。こうして船出した徐福一行が帰ってくることはなかった。平原広沢(広い平野と湿地)を得て王となったと記述されている。
この出来事は紀元前219年~紀元前210年頃のことと考えられている。
日本ではようやく長い縄文時代が終わり弥生時代を迎えた頃である。
卑弥呼が登場するのは、ようやくこれから400年ほど後のこと。
まだ日本には文字で記録されるような文明はなかった。そのためか『古事記』『日本書紀』には徐福に関する記述はない。
次回へつづく!
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