竹内しげやす 市政チャレンジ日記

新米議員から四期目を向えて市政にチャレンジする奮戦記。
一歩一歩目標に向け前進する日々の行動を日記風に。

三河地震の体験談

2016年04月24日 | 災害に強いまちづくり
 昭和20年には、警戒警報や空襲警報で防空壕へ逃げ込むという毎日でした。終戦間際の七月には、西区の水神交差点の付近で、艦載機からの爆弾により小学生が亡くなりました。
 昭和20年1月13日午前3時38分頃、急に激しく揺れ出し、逃げようにも戸が開かず、戸をがたがたさせていたら何かの拍子に急に開いたので逃げることができました。その後も時折「ドーン」と下から突き上げるような大きな音がして、激しく揺れだす余震がしがらくの間続きました。
一週間から十日ほどは、夜になると道路や海岸などの屋外に造った掘っ立て小屋で寝て、夜露をしのぎました。掘っ立て小屋は戸板二、三枚ずつを四方に立てて、むしろや布を隙間に貼り、戸板や帆布を屋根に使って造りました。
二、三家族が一緒の小屋で寝泊りをしました。真冬の1月のことで、大変寒かった覚えがまります。布団を狭い小屋に持ち込み、身を寄せ合って寒さをしのぎました。しばらくは、昼は空襲警報で防空壕、夜は地震を恐れて掘っ立て小屋へという生活でした。・・・・・(続 今昔の三谷より)

深溝断層

震源地は三河湾 北緯34度42分06秒 東経137度06分48秒、深さ11km。三重県津市で震度5を記録したが、震源に近い現在の西尾市などでは震度6(現在の震度階級では7)であったといわれる。

1ヶ月前の1944年12月7日に発生した昭和東南海地震の最大規模の余震とする説があるが、同地震に影響を受けて発生した誘発地震とする説もある。地震発生当初は昭和東南海地震(第一次地震)に対して第二次地震と呼称された。

震源が浅く、マグニチュード 6.8と規模が比較的大きかったにも関わらず、被害報告はごく僅かしか残されていないために、現在に至ってもこの地震について詳しいことは判っていない。しかし震源域の三河地域では、昭和東南海地震よりも多くの死者が記録されており、死者1,180人、行方不明者1,126人、負傷者3,866人。家屋の全壊は7,221戸、半壊1万6,555戸、全焼2戸、半焼3戸、その他2万4,311戸とされる[9]。なお、近年になって地震被害を報告した当時の帝国議会秘密会の速記録集が見つかっており、これによれば愛知県の幡豆郡と碧海郡で死者2,652人に達したという。
コメント
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