わしやま

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これぞ!スーパー野生児

2011-07-25 22:00:00 | わしやま音楽祭Vol.14
お届けするのは

Native Son「Super Safari」


この曲は1979年デビューアルバム「Native Son」に収録されたナンバーで、

このデビューアルバムはフュージョンブームと重なって、30万枚もの売り上げ、オリコンアルバムチャート(1979年度)ではニューミュージック全盛を代表するアーティストに混じり44位を記録し、この曲はカセットテープのCMにも起用された。


このアルバムについて(www.aomori-net.ne.jpより)。


ネイティブ・サンについて論じる前に、まず押さえておかなければならない事がある。それは当時日本中に吹き荒れていたフュージョン・ブームについてだ。

70年代後半から80年代前半というのは経済的にもバブルに向かって、どんどん景気が良くなっていた頃。
日本人みんな「何が何だかよく分からないけど、景気が良くなって、どんどん世の中楽しくなっていくナア」としみじみ感じていた時期だった。
そんな時代の雰囲気にフュージョンという音楽はとてもマッチしていた。
つまりフュージョンという音楽は、誰それの意思によって編み出したという類のものではなく、音楽ファンのニーズと音楽業界の人々の思惑が見事に一致して、時代の気分と共にごく自然発生的に生まれてきた音楽だったのだ。

このフュージョンの歴史についてはフュージョン評論家の熊谷美広氏が詳しくも鋭い論評を書かれているので、ぜひ読んで下さい。「海外フュージョンの歴史」と「日本のフュージョンの歴史」の2本立て。さすが、プロのライターが書いたものだけあって説得力充分な内容、フュージョン・ファンには一読をお薦めします。

とにかく、当時のフュージョン・ブームは凄かった。
その熱気をリアルタイムで知っているだけに、その後のブームの腰砕け状態にはトホホの気分にさせられるのだが、熊谷氏が仰るように「ブームというものは、いつかは終わるものなのだ」という事に尽きるのかも知れない。

まあ、それはそれとして、我がネイティブ・サンもそんなフュージョン・ブームを背景に誕生したわけだが、そのバンドの売り出し方は、当時としてはかなり先鋭的なプランで行われた。
そう、今では当たり前になってしまったが、当時としては極めて斬新だった"メディア・ミックス作戦"である。

当時は、渡辺 貞夫を筆頭にして日野皓正、笠井 紀美子、渡辺 香津美、山下 洋輔その他その他、絵になるトップのミュージシャン達が、頻繁にTV-CFに出演した。
ネイティブ・サンも例外ではない。無人駅のプラットフォームをステージにして、メンバーが「スーパー・サファリ」を演奏するという、あの名作CFは年配のフュージョン・ファンなら、今でも覚えている方が多いだろう。

あのCFはネイティブ・サンというバンドのカラー、「不良少年がそのまま大人になった」というメンバーの雰囲気を見事に具体化していて、あの時代にピッタリの映像だったと思う。
あの頃、ネイティブ・サンを起用したCMプランナーは相当な凄腕の持ち主、時代感覚に優れたプロ中のプロだったのではなかろうか。

実際、あのCFをテレビで見て「初めてジャズ・フュージョン系のアルバムを買った」という方も多かっただろう。でなければ、1万枚売れれば大ヒット御礼!というこの業界で、30万枚以上のセールスを記録したというデビュー・アルバムの売り上げが、実現するはずがない。

つまり、ネイティブ・サンは本田 竹広や峰 厚介が、それぞれ自己がリーダーとして活動していたバンドと違って、ジャズ・ファン以外の大衆にも受ける要素を、ふんだんに持っていたといえるだろう。

因みにあの無人駅、ドラムのヒロシさんによれば実際にあったものではなく、CFのために丸ごとセットを作ったらしい。
当時としては、かなり予算を掛けて制作されたのは確かな事で、それだけ音楽業界全体が燃えていた”良い時代”だったのは間違いない。

さて、実はこの原稿を書くために、改めてネイティブ・サンのデビュー・アルバムを聴いた。

良く出来たアルバムだな-と、いま聴き直しても強く思う。

レコードA面は、本田 竹広のイントロが心弾む「Bump Crusing」でオープニング、サンバ調の爽やかな「Wind Surfing」で終了。
休む間もなく、B面は心掻きむしる哀愁のボサ・バラード「Whispering Eyes」、スローな「Twilight Mist」(注:この曲は本田 竹広の事実上のデビュー・アルバム『本田 竹彦の魅力』〔トリオ・レーベル〕に収められている「クワイエット・シー」が原曲)を経て、待ってましたの「Super Safari」が登場。
この曲は後半、峰 厚介のワウを効かせたエレクトリック・サックスのソロのパートからテンポが倍速、おいしいところをサックスが全部持っていく。そして最後に突然訪れる、パッパッラッパのエンディングがたまらない。

アルバムのラスト・ナンバーは「Whispering Eyes」の短いテーマ・リプライズ。これがまた泣かせる。

本田 竹広がチェレスタで、寂しそうに曲のテーマをソロで弾くのだが、作品全体に広がる心地良い余韻がいつまでも残るようだ。
収録曲は全て、本田 竹広のオリジナル。その優れた作曲センスと時代を反映した音楽性は、いまもって色褪せたという印象を与えない。

さて、このデビュー・アルバムには、こんなエピソードがある。

ここに収められた、全ての曲にタイトル(曲名)を付けたのは、ナント、たった一人の中学生なのである。

現在、キーボード奏者として活動している吉澤はじめ君がその人である。

吉澤君の叔母さんは著名ドラマー、ピーター・アースキンの夫人であり、音楽業界に知り合いもたくさんいた。それで「将来の仕事はコピー・ライター」と決めていた当時、中学生だった吉澤君に、白羽の矢が立ったらしい。

いや、しかし中学生が考えた曲名にしては、センスが良過ぎてビックリしてしまう。

「Bump Crusing」、「Whispering Eyes」、「Super Safari」と非凡な才気を感じさせるタイトルばかり。

以下は、吉澤 はじめ君による回想-。

「ええ、当時、ボク、コピー・ライター志望でしてね。それでいろいろ曲名を考えたんですけど、『Bump Crusing』っていうのは最初、『クレイジー・ドライビング』ってタイトルだったんです。ほら、あの曲、車を猛烈にスピード出して滅茶苦茶に走るっていう感じじゃないですか。でも叔母さんに『そのタイトルじゃ、平凡過ぎる』って言われて。。。。それでちょっとインパクトを狙って『Bump Crusing』にしました。『Super Safari』も、サファリはアフリカのスワヒリ語で”旅”っていう意味なんですけど、それで”特別”っていうか、”超”の付く旅みたいなイメージで『Super Safari』にしたんですよね」

このフュージョンの歴史に残る大ヒット・アルバムの曲名全てが、一人の中学生によって付けられた-というのも驚きだが、中学生に曲名を依頼するという、レコード会社もレコード会社だ。
いかにイージーな事をしても、しかし何故か結果的にうまくいってしまうという、”あの時代”ならではのエピソードとも思う・・・