近世における石仏の造立は徳川幕府の宗教政策と深く関わっているとみることができる。1615年(元和元)年、幕府は仏教諸宗・諸本山の寺院に対する法度を制定し、仏教教団の統制をはかった。まず本山・本寺・末寺などの従属関係を明確にし、新しい寺の建立や新教義をかたく禁止した。つぎに檀家制度を定め、宗旨人別帳をつくり一般庶民を一つの寺院に登録所属させる寺請制度を定めた。1638年(寛永15)には切支丹禁制の高札が立てられ、さらに1640年(寛永17)、キリシタン宗門改役がおかれ統制を強化した。また幕府は神道・仏教・儒教などは認めて奨励した。ここで仏教と在来の神道とが一層混交して、種々の神仏が成立した。権現名を付するものがその例である。寺院の大規模建築を援助し、葬儀や法事も奨励した。また鎮守社の造営を進め、村の共同体意識を高めることに配慮した。寺院では住職が先祖供養や墓の造立、仏壇・位牌の設置、彼岸や盆の供養、墓参などを指導するようになった。
このような政策のなかで、仏教系・神道系(修験道系)・道教系などを中心に種々雑多な信仰が生まれることになった。一方庶民は宗教に対し様々な期待を持つようになり、鎮守社には豊作、健康安全の祈願を神職にたのみ、修験者には祈祷や占術を、寺院には先祖供養、葬儀などを通じて密接に結びつくようになった。また僧侶(神職)による読み書きの指導、仏教的・儒教的な教育も行なわれ、寺院の住職が村の指導者として重きをなすようになった。また石仏造立について指導的な立場で奨励したのもこれらの人たちであった。ここに各種の信仰者の集まりが生まれ、講が成立して集団化が進んだ。一個人もいくつかの講集団に結び付けられ、宗教活動と日常生活が密接複雑に関係するようになった。墓石の仏菩薩と野や路傍の石仏は、このような要因でいろいろなものが造立されるようになったと考えられる。
※嵐山町博物誌調査報告第8集『嵐山町の石造物1』(嵐山町教育委員会発行、2003年3月)掲載の島﨑守男「嵐山町の石仏造立の背景」(同書4頁)より作成
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