嵐山石造物調査会

嵐山町と近隣地域の石造物・道・文化財

嵐山町の石仏2 石仏と像塔型墓塔(墓石)造立の比較

2009年03月02日 | 嵐山町の石仏造立の背景

 嵐山町には野の石仏と良く似たお墓が多く見られる。その像塔は舟型浮彫の座像・立像などで、阿弥陀如来や地蔵菩薩、聖観世音菩薩、如意輪観世音菩薩といったものである。
 今回、石造物調査の補足調査として、嵐山町のほぼ全域の墓地より257基の仏菩薩像型墓石を確認した。その内訳は次の通りである。

 ・阿弥陀如来    33基
 ・地蔵菩薩     70基
 ・如意輪観世音菩薩 86基
 ・聖観世音菩薩   68基

 これら墓石の像容は、野の石仏と同じである。これらを見分けるには、戒名(死後の名、例えば○○禅定門・大姉・居士・信士・信女・童子・童女など)と施主の個人名が刻されているものが墓石であり、そうでないものが石仏であるということで区分できる。
 現存する庶民の墓石としては、これらの形式のものが初期の造立と思われる。江戸幕府の宗教政策により、寺院は墓塔(墓石)の造立を薦め先祖供養を奨励した。その結果、これらの墓石が造立されるようになったのである。なお仏菩薩型墓石の造立は浄土系・天台系・禅系の宗派が中心で、日蓮系の宗派には見られないものである。
 嵐山町内での阿弥陀如来型墓石の造立初出は1667年(寛文7)である。また造立の最盛期は元禄年間で、1730年(享保15)にはほぼ終わっている。この時代に石仏として建てられた「南無阿弥陀仏」の名号塔は2基であり、その後文字塔の名号塔は7基が造立され、阿弥陀如来型のものはいっさい見られない。
 地蔵菩薩について、石仏の造立が先に見られ、墓石の方が遅い造立となっている。地蔵菩薩型墓石の造立初出は1669年(寛文9)であり、1785年(天明五)に最後のものが造立されている。同じ時期に造立された石仏としての地蔵菩薩像は48基で、墓石の70基よりも少ない。
 如意輪観世音菩薩型の墓石は1672年(寛文12)が初出であり、1799年(寛政11)には終わっている。造立の最盛期は元禄年間で20基を数え、その後も平均的に造立が続く。如意輪観世音菩薩の石仏は1745年(延享2)年の造立が初出で、1892(明治25)年までの間に43基の造立が見られ、墓石よりも全体的に新しいものである。
 聖観世音菩薩型墓石造立の推移は如意輪観世音菩薩型のものと類似するが、初出は二十年程早く1647年(正保4)である。最盛期は同様に元禄年間で11基を数え、1792年(寛政4)に墓石としての造立は終わっている。この頃には石仏として馬頭観世音菩薩の造立が見られるようになり、その後昭和期まで続く。
 このように像塔型墓塔は地蔵菩薩型は別として、それぞれ石仏よりも早い時期に造立が見られ、石仏の原型となったものと考えられる。
※嵐山町博物誌調査報告第8集『嵐山町の石造物1』(嵐山町教育委員会発行、2003年3月)掲載の島﨑守男「嵐山町の石仏造立の背景」(同書4頁~5頁)より作成


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