
家内をスーパーマーケットに連れて行き、彼女が買い物している間、その付近を歩いたらパックリ口を開けた柘榴を見つけた。
ふと思い出したのが、芭蕉の一句だった。「口あいて腸(はらわた)みせる柘榴(ざくろ)かな」。この句が言わんとしていることは必ずしも良くは分からない。俳句にせよ短歌にせよ、日本の伝統的詩歌は説明的でない。短い言葉で一瞬の心象風景を切り取る。この句にはユーモアと皮肉が込められているのを感じる。
私がこの句に最初に出会ったのは、最初に説教学を習った先生をとおしてであった。良い先生だったが、歯に衣着せぬ皮肉と毒舌があった。説教とは語る者の中味をありのままにさらけだしてしまうから、修行を怠らぬようにという意味に受けとめてきた。今でもこの一句は説教者としての自分をえぐるような言葉に感じる。
内村鑑三は『求安録』(岩波文庫 現在絶版)の自序冒頭に、この句を引用している。私は「口あけて・・・」と記憶してきたが、内村の引用では「口あいて・・・」である。前者で引用している人も多い。どちらが本当なのだろうか。
ふと思い出したのが、芭蕉の一句だった。「口あいて腸(はらわた)みせる柘榴(ざくろ)かな」。この句が言わんとしていることは必ずしも良くは分からない。俳句にせよ短歌にせよ、日本の伝統的詩歌は説明的でない。短い言葉で一瞬の心象風景を切り取る。この句にはユーモアと皮肉が込められているのを感じる。
私がこの句に最初に出会ったのは、最初に説教学を習った先生をとおしてであった。良い先生だったが、歯に衣着せぬ皮肉と毒舌があった。説教とは語る者の中味をありのままにさらけだしてしまうから、修行を怠らぬようにという意味に受けとめてきた。今でもこの一句は説教者としての自分をえぐるような言葉に感じる。
内村鑑三は『求安録』(岩波文庫 現在絶版)の自序冒頭に、この句を引用している。私は「口あけて・・・」と記憶してきたが、内村の引用では「口あいて・・・」である。前者で引用している人も多い。どちらが本当なのだろうか。
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