ヨハネによる福音書2章13~25節。本日のヨハネによる福音書の個所を見ると、イエスはこのせっかくの神殿を否定するかのような激しい行動をなさるのである。こう書いてある。「ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。『このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない』」。とにかくどんなに立派なものであっても、石で作られたこれまでの神殿には限界があるということである。人間や罪や弱さや社会情勢によって構造的な悪が忍び込むのである。
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ヨハネによる福音書2章1~11節。ヨハネによる福音書によれば、イエスはメシアとしての活動のはじめに、ガリラヤのカナで婚宴に出席し、水をぶどう酒に変えるというしるしを行って栄光を表した。婚宴もぶどう酒も旧約では将来のメシア時代の祝福の象徴だった。ここでは「わたしの時はまだ来ていません」という言葉に重要な鍵が秘められている。「わたしの時」、イエスの時というのは、ヨハネ福音書の中では非常に重要な意味をもっている。それは、メシアとして神様から遣われたイエスに定められた使命遂行の時、イエスがご自分の使命を果して神のもとへ帰って行く、その時のことである。やがて十字架の時がきて、イエスが贖いの死を遂げられることによって、メシア的救いの喜びは溢れるばかりにもたらされるのである。カナのしるしは、その大きなメシア的祝福の先取りなのである。 . . . 本文を読む
ヨハネによる福音書1章35~51節。本日のヨハネ福音書の召命物語は、4つの福音書の中で最も詳しいものである。それだけ、イエスの弟子という存在の必要性、重要性が示されているのだと思う。そして、ここで強調されていることは、イエスとの出会いに向けて身近な人を手引きするということである。他の三つの福音書ではイエスは弟子となる人々に御自分から直接声をかけられるが、ヨハネ福音書ではフィリポを除くと、そうではない。皆イエスに出会った仲間を介して、イエスのもとへ導かれるのである。すなわち、アンデレは洗礼者ヨハネによって、ペトロはアンデレによって、ナタナエルはフィリポによって、それぞれイエスとの出会いに導かれている。ここには、イエスとの出会いに至るためには誰かの手引きが必要であるという主張がこめられているような気がする。イエスを紹介して、イエスのもとに連れて行く人が必要であることを、ヨハネ福音書は強調しているのである。
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ヨハネ福音書1章14~18節。ここで注目しなければならないことは、14節の「言は肉となって」というところだと思います。ここで、人間のことがわざわざ「肉」という言葉でいわれているのです。これは聖書では神さまのご性質と比較した場合の人間の性質、その被造物としての脆い性質を意味しています。絶対的に神さまとは異なる性質だといえます。しかし、こういう絶対的に御自分とは異なる「肉」という姿の中に、神さまはあえて宿りたもうた。こういう驚くべき神さまのへりくだりが、ここで語られているのです。これは、何とかして、御自分から離れた人類、罪深い人類を救いたいという神さまの情熱の現れであると言わなければなりません。ヨハネ福音書の有名な言葉を借りると、「神はその独り子をお与えになったほどに世を愛された。独り子を信じるものが一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(3・16)ということです。 . . . 本文を読む
ヨハネ福音書1章1~14節。ヨハネ福音書が語るイエス・キリストとはどういうお方なのだろうか。この福音書は、イエス・キリストを「言」であるとして紹介している。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」(1章1~3節)。これは、聖書を読んだことのある人なら誰でも聞き覚えのある言葉だと思う。そして、どういう意味だろうと一度は思いめぐらしたことがある個所だと思う。いったい、ヨハネ福音書はこの言葉によって、何を伝えたいと思ったのだろうか。「言」ロゴスというのは元来、知恵とか、理性とか、道理といった、世界の根底を支えている普遍的な真理を意味している。
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ルカによる福音書2章1~20節。イエス・キリストの誕生を最初に告げられたのは、羊飼いたちであった。ここにもキリストの福音の特色があらわれている。羊飼いというのは、我々が思い描くような呑気な職業ではない。イスラエルはとうの昔に牧畜社会から農耕社会へと移行していた。そして、羊飼いは貧しく日の当たらない仕事になっていた。野宿をしたり、夜通し働いたりしなければならないため、やりたがる人もいなかった。羊を追って危ない岩場を探し歩いたり、ときには狼と戦ったりもしなければならなかった。だから、羊飼いになる人というのは、イエスの時代では社会の最下層にある人たちであった。また、そういう人たちは律法をきちんと学ぶ機会がなかったので、当時の社会では蔑まれていたと言われる。誇れるものなど何もない人たちであった。
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ヨハネによる福音書1章19~28節。洗礼者ヨハネは、自分のことを紹介して、自分はメシアなどではなく、「わたしは『主の道をまっすぐにせよ』と荒れ野で叫ぶ声である」と語った(1・23)。これは、イザヤ書40章の引用だ。そこで何が語られているかというと、バビロン補囚からの解放の約束である。長い服役の期間が終わり、解放が告げられ、イスラエルは祖国に戻ることができるようになった。だから、バビロンとエルサレムの間に横たわる荒れ野に、神様が民を導き上るための道を造れと言っているのである。「まっすぐにする」とは、障害物を取り除き、きれいに清掃することを意味する。神がお通りになるのだから、その道を整備しなければならないと言っているのだ。ちょうどそのように、今日の人々の心の中にもメシアがおいでになる道が整えられなければならない。頑なな石地のような心がメシアを見出すようになるには、証し人たちの叫ぶ声が必要である。 . . . 本文を読む
列王記上22章6~17節。皆さんは聖書をどのように親しんでおられるだろうか。受洗準備会などで、信仰生活における大切な一面は聖書に親しむ生活であるということを必ず言うことにしている。日々の生活の中でどのように聖書に親しむか、これをいつも課題として考えなくてはいけない。最も単純で最も素朴で、誰もが必ずしている読み方は、自分の心に響く聖句を探し読みするという読み方ではないかと思う。これは馬鹿にしてはいけない読み方だと思う。自分のニーズに密着し、痒いところに手の届くという良さがある。そして、そのようにして集まった愛誦聖句は、信仰生活の土台にさえなる。しかし・・・・・・ . . . 本文を読む
イザヤ書52章1~10節。きょうのイザヤ書の箇所の中心は、なんと言っても7節以下の喜びの知らせにある。そこで描かれていることは、主の来臨を告げる伝令の姿である。バビロンからの民の帰還に先立ち、エルサレムに解放の知らせが届く。バビロンからエルサレムまで、山々を越えて長い道のりを伝令は走る。そして、エルサレムの見張りがその伝令の知らせを聞き、喜びに溢れながら町の人々に向かってそれを復唱するのである。ここには、晴れ晴れとした解放の喜びが漲っている。パウロがローマ書の10章15節で自分の異邦人伝道のつとめについて適用した箇所でもあった。
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エレミヤ書23章1~6節。これはエレミヤ書で唯一のメシア預言であり、注目に値する。おそらく、現実の王の姿に何度も失望したエレミヤは、ただ新しい牧者たちのことを預言するだけでは、十分でないと考えるようになっていたのであろう。もっと希望に満ちたもの、もっと頼りになるもの、もっと確実なものを探し求めていた。そして、そういうエレミヤ与えられた幻が、「正しい若枝」と呼ばれるメシアの出現だったのである。エレミヤも将来に、一つの希望に満ちた明るい光を見つめた預言者であった。「神の救済史における新たなメシアの時代の預言の成就、・・・我々は、キリスト教徒として、イエス・キリストにおいてこれが与えられた、と見るのである」(A.ヴァイザー、ATD旧約聖書註解20「エレミヤ書」) . . . 本文を読む