出エジプト記2章1~10節。本日与えられている出エジプトの記事は、モーセ誕生の秘話である。モーセは言うまでもなく、神に立てられてイスラエルをエジプトから連れ出した解放の指導者であったが、そのモーセがどのような状況のもとで生まれたのか。また、その誕生のしだいはどうであったか。そのことが本日の箇所で語られている。この箇所で示されていることは、一言で言って、モーセの命が守られた不思議な経緯ということではないだろうか。モーセは生き延びることが不可能であったのに、不思議な経緯で生き延びるようになったと、この記事は伝えている。
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創世記12章1~9節。アブラハムの選びには謎がある。それは、聖書のどこにもアブラハムが選ばれた理由が説明されていないことと、アブラハムがなぜ神の召しに答えることができたのかも説明されていないことである。全地に散らされた数多くの氏族の中から、誰か一人を選ぶとしたら、何を基準に選ぶだろうか。少しでも優秀でわきまえのある氏族の出身者、実績と評判のある人物を選ぶのがふつうであろう。しかし、聖書はアブラハムがそうであったとは述べていない。聖書は選びと召しの理由を人間の中には求めていないのである。ということは、それはあくまでも神様の側の、人間が介入することのできない、自由な決断であったということではないだろうか。アブラハムの選びと召しは人間には解明することのできない神の憐れみであり神秘なのだ。
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創世記3章1~15節。人間以外の動物は罪を犯すことができない。時には熊や鹿が住宅地に出没して被害を与えたりするが、けっして罪を犯しているのではない。動物たちは神が与えた本能のままに生きているだけなのであり、環境の変化がそうさせているのである。それに対して、人間は自分の判断と意志でもって神への服従を選びとらねばならない存在なのである。罪を犯さないように自由を妨げてしまったら、ある意味で人間はその尊厳の一部を失ってしまうのである。だから、蛇の誘惑の場面で、神様は人が罪のなかへとそそのかされないように介入してはくださらなかったのではないだろうか。
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創世記1章1~31節 神はこの世界を極めて良いものに造った。にもかかわらず、時にそれは人間には考えもつかない現象を引き起こすのである。今回の大災害があったからと言って、我々も神を疑ったり呪ったり、恨んだり憎んだりしてはならないと思う。そのことで神はこの地球が人間のための楽園でも極楽浄土でもないことを教えているのかもしれない。そして、そういうことがあっても、神は人間に恵みを与え、美しい海と実り豊かな大地を提供し続けるのである。神は慈しみ深い創造者として、今もこれからも我々人類の生活を成り立たせてくれることに変わりはないのではないだろうか。 . . . 本文を読む
ルカによる福音書19章11~27節。このたとえ話が意図していることは、明らかである。すでに冒頭でルカが言っているように、「神の国はすぐにでも現れる」と思っていた人々に対する教えという意味をもっている。神の国は必ず現れるけれども、人間にはその日が何時かを予想することはできない。だから、現れるまでの間どういう生き方をするかが問われているということである。そして、イエスを信じた僕たちは、与えられた恩恵に対し、精一杯の応答をしなければならないということである。今はそのテスト期間であるということではないだろうか。この点が強調されている。
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ルカによる福音書16章1~13節。このイエスのたとえは実に驚くべきたとえである。不正な管理人のたとえとよく呼ばれている。登場するのは、ずるがしこい管理人であって、きれいごとが語られているのではない。当時実際にあった出来事を題材にしているのだろう。解釈も難しい。いったいこのたとえから何を学べというのだろうか。我々はこのたとえを信仰の世界に置き換えてみなければならない。そうすると、この世の富を神の国に迎えられるための準備に用いなさいということになるであろう。すなわち、この世の富を用いてますます神様を友達とするような関係を築きなさいということである。困っている信仰の友のために、教会の必要のために、伝道のために、社会的弱者のために、思い切って献げることができるようになれば、私たちは金銭の魔力から解放され、信仰はいっそう確かになり、神の栄光を表し、またキリストの愛を証しすることにもなる。また、そうすればますます神様との絆が深くなり、喜んで永遠の住まいに迎え入れていただけるだろうと、イエスは語っているのである。 . . . 本文を読む
コロサイの信徒への手紙3章12~17節。私たちの心の中には、いつも二つの思いがあって、その二つが覇権をめぐって争っている。それは、不満の思いと感謝の思いである。そのいずれが支配するかによって、私たちの毎日も人生全体も、がらっと変わってくる。では、本日のコロサイ書はどういうことを信徒たちに語っているのだろうか。3章12節以下を見るとこう書いてある。「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい」(12~13節)。
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ルカによる福音書14章25~35節 主イエスは仰った。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」。厳しい言葉である。家族や自分の命を「憎む」というのは穏やかでない言い方だが、これはセム語特有の表現で、二者択一を迫られたときに、私は「こちらを愛しあちらを憎む」というのだそうである。この「憎む」には情緒的な意味はない。この場合の意味は、「イエスのほうを選ぶ」ということ、つまりイエスを第一にするということにほかならない。このことに注意して信仰生活を送りたいと思う。
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コリントの信徒への手紙二 11章7~15節。本日の個所で具体的に問題なっていることは、パウロがコリント教会からサポートを受けないで働いているということであった。このことはすでにコリント第一の手紙の九章で述べられたことであった。パウロは福音宣教者が報酬を受けるのは当然であるという原則はよく知っている。主イエスも「その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである」(ルカ一〇・七)と仰った。パウロもここで「主は、福音を宣べ伝える人たちには福音によって生活の資を得るようにと、指示されました」とそのことに触れている。それにもかかわらず、彼は「キリストの福音を少しでも妨げてはならない」と判断して、開拓伝道地に滞在している間は報酬を受ける権利を用いなかったのである。これはパウロ独自の現実的判断であって、まだ信徒の少ない群れに経済的負担をかけてはなるまいという思いや、報酬目当てに伝道をしているという疑いを招かないためであった。
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ローマの信徒への手紙14章1~9節。もしかすると、ローマの教会では、肉を食べる人たちと菜食主義の人たちの間で激しい論争が生じ、もはや互いに受け入れられない深刻な状態に陥っていたのかもしれない。パウロの言葉に熱が入っているのでその可能性は十分にある。互いに譲れなくなって、相手を裁き、感情的に対立するようになるということが、教会でも起こりえるのである。そういう状況に対してパウロは語りかけている。「大切なことを忘れているぞ。君たちは神様のものなのだ。お互い、神様に受け入れられているのだから、互いに受け入れ合いなさい。そして、お互い、自分のために死んで復活されたキリストを主とあがめることでひとつになろうではないか。それが、今いちばん求められていることなのだ」。パウロはそのように双方を諭しているように思われる。
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