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夕日さすまに いそしめよ(旧「今日までそして明日から」)

人生、宗教、世相、趣味などを思いつくままに記す

「イエスの復活ー婦人よ、なぜ泣いているのか」

2012-04-07 18:46:20 | 日曜日のメッセージ
 ヨハネによる福音書20章1~18節。ヨハネ20章の復活記事で、最初に復活のイエスに出会うのは、マグダラのマリアである。ヨハネ福音書は彼女にスポットを当ててイエスのお墓の場面を描いている。イエスの墓に異変が起こったことの第一発見者はこのマリアであった。墓を塞ぐ大きな石が取り除けてあったのである。そこで、マリアは急いで弟子のところに行って報告をし、イエスの弟子の二人が急いでやってきて、彼らも墓の中が空になっているのを確認している。墓の中にはイエスの体を包んだ亜麻布と、頭にかぶせた布が残っているだけであった。しかし、マリアはこのことの本当の意味を理解できず、誰かがイエスの遺体を運び去ったと考えて、ただ泣くばかりであった。「婦人よ、なぜ泣いているのか」と二度にわたって言われているとおりである。 . . . 本文を読む

父がお与えになった杯

2012-04-06 16:12:43 | 日曜日のメッセージ
 ヨハネによる福音書18章1~11節。ここは福音書の中の決定的な場面である。弟子の一人に裏切られ、何の罪もないのに捕らえられていくイエス。弟子たちを残してたった一人引っ立てられていくイエス。捕らえられたらどういうことになるかは分かり切っていた。そして、弟子たちは強大な敵の前にまったく無力であった。このあまりにも悲しい出来事に、ペトロの心は張り裂けそうになっていた。そこで、彼は自分を見失い、激情に身を委ね、愚かにも、大祭司の僕の耳を切り落とすという何の益にもならないことをしてしまったのである。  しかし、イエスの逮捕はイエスの敗北を意味するものなのだろうか。ヨハネ福音書が一貫して主張していることはそうではないということだ。ヨハネ福音書では、イエスの死は栄光の時であって、イエスは自分の死を神による定めとして冷静に受けとめていた。 . . . 本文を読む

一粒の麦が地に落ちて

2012-03-27 19:53:16 | 日曜日のメッセージ
 ヨハネによる福音書12章20~28節。この箇所はヨハネ版イエスの受難予告と言ってもよい個所である。イエスは住家の死が近づく時、「人の子が栄光を受ける時が来た」(23節)と言われた。でも、なぜイエスの死が栄光の時なのだろうか。復活の時が栄光の時だというなら、よく分かるのである。しかし、十字架の時が栄光の時だというのは当たり前のことではない。このイエスの死のとらえ方はヨハネによる福音書に独特のものだと言える。ヨハネ福音書では、イエスが栄光を受けて高く挙げられるのは、復活を待たずして十字架の時から始まるのである。では、どうしてイエスの死が栄光の出来事と言えるのか。これは人間の常識を超えたなかなか難しい問題である。これはただイエスの死の痛ましさを見つめていても答えは得られない。その答は独り子イエスと父なる神との関係の中に見出されねばならない。 . . . 本文を読む

ナルドの香油~聖なる浪費

2012-03-16 18:56:48 | 日曜日のメッセージ
 ヨハネによる福音書12章1~8節。どんな世界にも忘れがたいエピソードがある。あまりにも奇想天外なために、いつまでも語り継がれて、誰もが知っている話というものがある。聖書にもそういう話がたくさんある。そして、本日のナルドの香油の話はそういうものの典型的な一つではないかと思う。まもなくイエスが十字架にかかろうとするときであった。エルサレムの近くのベタニヤでイエスのために晩餐会が開かれた。そこで一人の女性がイエスの足に純粋で非常に高価なナルドの香油を塗ったというのである。それもふんだんに惜しむことなく全部使ってしまったと言われているのである。普段は宝物のように保管し、少しずつ少しづつ大切に使っていたナルドの香油だった。それをそのとき彼女はイエスのためにいっぺんに使い切ってしまったのだ。驚くべき行動であった。その女性とはラザロの姉で、マルタの妹マリアであった。歳の順は実際は不明なのだが便宜上そうしておこう。 . . . 本文を読む

あなたも離れていきたいか

2012-03-16 17:36:37 | 日曜日のメッセージ
 ヨハネによる福音書6章66~71節。66節のところで「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」と述べられるのであるが、こういう離脱者が続出する危機の中で、イエスは十二人の弟子たちに問いかけるのである。「あなたがたも離れて行きたいか」。もちろん、この問いかけは、「いいえ、そのようなことはありません」という答えを期待した問いかけである。「あなたがたも離れていきたいのではありまいな」とも訳せる。イエスは、仲間たちの離反という危機の中で動揺している弟子たちに、改めて信仰共同体に留まる意志を確認しようとしているのである。 . . . 本文を読む

生まれつきの盲人のいやし

2012-03-08 20:08:44 | 日曜日のメッセージ
 ヨハネによる福音書9章1~12節。本日のヨハネ福音書9章は生まれつきの盲人がいやされる話である。生まれたときから目が見えず、道端に座って物 乞いをして暮らしていた。この男がイエスの目に留まり、いやされて見えるようになったということが伝えられている。イエスが盲人をいやすという話は、ほかの福音書にも何度か出てくるが、ヨハネ福音書9章には、ほかの福音書にはないいろんな特色がある。その一つが、「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」(9・2)という弟子たちの問いである。これは当時のユダヤ教の考え方を色濃く映し出している。不幸の原因は本人あるいは先祖が犯した罪にあるという考え方である。因果応報の世界観であった。 . . . 本文を読む

荒れ野の誘惑

2012-02-25 19:06:14 | 日曜日のメッセージ
 マタイによる福音書4章1~11節。誘惑はサタンの働きだが、それは同時に神様が与えている訓練だということも忘れてはならない。神は愛する子供を甘やかすのではなく訓練される。本日の誘惑物語でもそういう暗示があるのではないだろうか。もう一度、荒れ野の誘惑の記事の冒頭をよく見てみたい。この物語は「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、”霊”に導かれて荒れ野に行かれた」と書き出されている。あの受洗したときに降った神様の“霊”が、イエスを試練の荒れ野に導いているのである。ということは、試練の中にあっても神がイエスと共におられたということである。だからイエスは勝利しておられるのである。このことは、私たちの味わう試練においても同様なのではないだろうか。 . . . 本文を読む

すべての必要を満たす神

2012-02-25 18:51:15 | 日曜日のメッセージ
 ヨハネによる福音書6章1~15節。本日の福音書の奇跡物語は、パンの奇跡と言われて実に不思議な出来事を伝えるものである。イエスが山に登ったときのことだった。大勢の群衆が後を追ってきた。弟子たちもイエスと一緒だった。すると、イエスは「あの飢えた群衆に食べさせるには、どうしたらよいか」と弟子のフィリポに尋ねるのである。フィリポは当惑して答えに窮した。しかし、もう一人の弟子アンデレが一つのことをイエスに告げた。大麦パン五つと魚二匹をもつ少年ならここにいるということだった。わずかの食糧だった。しかし、イエスは群衆を草の飢えに座らせて、そのパンを配りはじめたのである。絶対に足りないはずのパンが次々に配られていく。そして、五千人もの群衆を満腹にし、しかも残ったパンくずを集めると、驚いたことに一二籠が一杯になったのである。 . . . 本文を読む

良くなりたいのか(健やかになることを願うか)

2012-02-14 20:25:11 | 日曜日のメッセージ
 ヨハネによる福音書5章1~18節。本日の福音書の場面は無力感に支配された人のもとにイエスがやってきてすばらしいことをしてくださるという物語である。たぶん、38年間病気で苦しむ人はベトザタの池の回廊にいる人たちの中でもっともみじめな人だったにちがいない。イエスはそういう人を無視して通り過ぎていく方ではなかった。六節で「イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、『良くなりたいか』と言われた」と書いてある。38年間病気で苦しむ人はイエスが来たことに気付いていなかった。でも、イエスは確かに彼を見出し、その人を「見」、彼の苦悩を「知って」、声をかけてくださったのである。 . . . 本文を読む

真理はあなたたちを自由にする

2012-02-07 21:38:00 | 日曜日のメッセージ
 ヨハネによる福音書8章21~36節。本日の福音書に「真理はあなたたちを自由にする」という有名な言葉がある。イエスの語る言葉あるいはイエス御自身は「真理」であって、人に本当の自由を得させるということだ。罪というのは、ヨハネ福音書では自分の業績や自分の知識体験に囚われていて、神様が遣わしたイエス・キリスト(つまり「真理」)を受け入れないことである。ヨハネ福音書はそこに根本的な罪を見ている(16・9)。そして、この自分への囚われから解放されて、イエス・キリストから学ぶこと、そしてイエスを信じて神の子となる資格をいただくこと、これが永遠の命であり、人間に与えられた最高の幸福、最高の自由だと言っているのである。 . . . 本文を読む