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夕日さすまに いそしめよ(旧「今日までそして明日から」)

人生、宗教、世相、趣味などを思いつくままに記す

万物を造られた神

2013-06-07 18:58:48 | 日曜日のメッセージ
 使徒言行録17勝22~34節。本日の使徒言行録の場面は、パウロがアテネの町にやってきたときのことである。そこで見たものは、伝道者パウロにとっては黙っていらないれないショッキングなものであった。アテネの町には至る所に偶像が祀られていて、人々はそれを拝んで生活していた。十戒で「いかなる像も造ってはならない」と禁じられたユダヤ人のパウロにとってはありえないことだった。なんと言うことか。哲学も芸術も当時の最高水準を誇ったアテネの人々が唯一の真の神を知らず、手当たり次第に偶像を造ってはそれを拝んでいるのである。しかも、それでも足りないで、人々は「知られない神に」と刻まれた祭壇を造り、それにも犠牲を捧げていたのである。自分たちの知らない神がまだ他にあるかもしれないという不安からであった。 . . . 本文を読む

わたしのもとに来なさい

2013-05-31 11:42:48 | 日曜日のメッセージ
 マタイによる福音書11章25~30節。イエスは「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」という招きを語られました。この重荷とはファリサイ的律法主義の重荷です。イエスはまさにそれを克服する新しい道をお与えになったわけです。つまり、律法の根源にまで遡って、その真の意味に即した服従の道、ファリサイ派の人々とは違う生き方、神様の新しい救いの御心をお示しになったということです。そこでは律法は救いのためのポイントを稼ぐ手段ではなくなります。恵みによる赦しが先にあって、律法の一つ一つを噛みしめながら喜んでそれを守るようにされるのです。それが本来の姿です。だから、イエスのもとにくれば、休むことができる。真にくつろぎながら、神様に仕えていくことができると言われているのです。そして、この新しい道から誰も除外されいない、主はすべての人をそこに招いておられるのであります。 . . . 本文を読む

聖霊は一人一人の上に注がれた

2013-05-19 18:27:57 | 日曜日のメッセージ
 使徒言行録2章1~11節。よく言われる言葉に、ペンテコステは教会の誕生日であるという説明がある。教会の誕生日? 何故なのだろうか。もうひとつなじめない説明だった。というのは、ペンテコステより前に教会は始まっているからである。使徒言行録の一章を読むと、使徒たちはエルサレムの宿泊所の二階座敷に集まって、婦人たちやイエスの母マリヤ、またイエスの兄弟たちと心を合わせて祈っている。そして、彼らについてくる弟子が120人ほどもおり、イスカリオテのユダに代わる使徒の補充選挙もして、体制を整えているのである。この使徒たち及び信徒の群れはまさしく教会そのものではないかと言いたくなるのである。しかし、ペンテコステを教会の誕生日だという説明は、おそらく聖霊を与えられて御言葉を宣べ伝える教会がここに初めて誕生したと言いたいのだろう。その意味でペンテコステが教会の誕生日というのは当たっている。 . . . 本文を読む

イエス、祝福しながら天に上る

2013-05-19 17:54:33 | 日曜日のメッセージ
 ルカによる福音書24章44~53節。本日は復活節の最後で、ペンテコステ(聖霊降臨日)を一週間後に控える日曜日である。イエス・キリストの昇天を記念する日となっている。昇天と言われている出来事は、聖書ではもっぱらルカによる福音書と使徒言行録によって伝えられている。両方ともルカの著作であるが、福音書の末尾にも、使徒言行録の冒頭にも描かれていて、時が一定していない感はあるが、ルカがイエスの昇天を強調していることがよく分かる。そして、ルカによると、イエスが昇天して父のもとに帰られた後、代わりに聖霊が派遣されて、キリスト教伝道が始まり、全世界に福音が告げられるのである。イエスの昇天とは、まさにキリスト教の新しい展開をもたらす重要な転機であった。イエスの時代から教会の時代への転換点でもあった。 . . . 本文を読む

あなたがたが祈るときには

2013-05-19 17:36:56 | 日曜日のメッセージ
 マタイによる福音書6章1~15節。神様が生きて支配してくださらなければ、我々の救いも平安もありえないのである。神なき社会、神を忘れた世界で、いくら平和と繁栄を追及しても、それは空しいことである。神から離れた人類がどれだけ混乱に陥ったかは、聖書が示しているとおりである。罪ある人間が治める国家は一時的に栄えることがあっても、決して長続きはしないのである。すぐに腐敗、堕落、内紛などに蝕まれていく。だから、まず「御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように」と祈らざるを得ないのだ。ここに本当の希望があるということだ。そして、ここがしっかりしてきたときに、初めて確信をもって我らの必要のためにも祈ることができるようにされるのである。 . . . 本文を読む

父のもとへ行く道

2013-05-01 23:56:55 | 日曜日のメッセージ
 ヨハネによる福音書14章1~11節。私たちはいったん死んでしまわないと天国の祝福にあずかれないというのではありません。生きている今、イエス・キリストを信じ、その交わりにつらなることによって、天国の喜びをすでに手にすることができるのです。主イエスはここで御自分がそういうメシアとしていつまでも我々のもとに留まるために、みわざを果たしたら必ず戻ってくると言われます。これは、十字架の死のあとに復活して永遠に生きる者として戻ってくるという意味でもありますし、同時に聖霊という姿で戻ってくるという意味でもあります。おそらく後者の意味が濃厚だと思います。ヨハネ流の表現では「弁護者」「真理の霊」です。いずれにしても、主は私たちとの交わりをいっそう有効で確かで実りあるものとするために、父のみもとにひとまず去って行かれ、再び戻ってくると約束されたのであります。 . . . 本文を読む

わたしは復活であり、命である

2013-04-27 13:17:52 | 日曜日のメッセージ
 ヨハネによる福音書11章17~27節 本日のラザロの葬儀の場面では、イエスは遅ればせながらそこにおいでになる。もっと早くこようと思えば来れたのに、わざとゆっくりしておられたのだ。11章6節で「ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じところに滞在された」と書いてある。そして、着いたときには、ラザロは墓に葬られてすでに四日も経ってしまっていた。何で急いでくださらなかったのかと言いたくなる場面だ。読者としてはそういう気持ちでやきもきするので、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」というマルタのことばは、イエスへの不満を込めた言葉であるかのように聞こえてくる。しかし、イエスによれば、この遅れに大きな意味があるというのだ。11章15節では「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである」と言っておられる。イエスはあえて遅れてくることによって、大事なことを明らかにしようとしておられるのである . . . 本文を読む

よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがる

2013-04-18 19:11:04 | 日曜日のメッセージ
 マタイによる福音書12章38~42節。ユダヤ人の指導者たちは表面は慎重さ、用心深さという仮面をかぶっているが、実は神の言葉を聞き取ろうという純真な心を失っているんだということである。イエスの言葉を聞いても心動かさず、イエスの働きを見ても信用しない。新しい神の呼びかけに共鳴することができない。そういう状態であるならば、しるしという方法で事柄を証明しても本当の信仰は生まれないということではないだろうか。しるしを求める心には、神に従おうとしない心、神を信じない心が潜んでいるということだ。そこを何とかしないと、本当の解決にはならないとイエスは言っておられるように思うのである。 . . . 本文を読む

喜び楽しみ、喜び躍れ

2013-04-06 18:07:00 | 日曜日のメッセージ
 イザヤ書65章17~25節。本日のイザヤ65章は、暗い現実の中にある人々に光を与える。神は御自分の民の苦しみに無関心な方ではないということだ。その苦しみを見て、創造者としての力をもって、臨んできてくださるということだ。そして、その神の働きには思いもよらないすばらしい結果が伴ってくると告げているのである。この神を信じる者のみが困難の中を最後までへこたれずに歩み通すことができるということではないだろうか。また、創造者なる神がやがて人の最大の悲しみである死を克服してくださるということも暗示されている。 . . . 本文を読む

イエスのお墓で起こったこと

2013-03-30 15:23:11 | 日曜日のメッセージ
 ヨハネによる福音書20章1~18節。ヨハネ福音書20章の復活記事で最初に復活のイエスに出会うのは、マグダラのマリアである。最後までイエスから離れることなく、十字架の場面ではその場に立ち、イエスの体が納められた墓も見届けている。そして、安息日が明けた週の初めの日、再び彼女はイエスの墓にやってきたのである。注目したいことは、あれだけイエスを慕い求めたマリアでさえ、自分からは復活のイエスの実在に気づくことができなかったということである。彼女は空になった墓を覗いても分からない。イエスの遺体がおいてあったところに天使がいるのを見ても復活には考えが及ばない。またさらに振り向いてイエスが立っておられるのを見ても、イエスだとは分からず、園丁だと思って話しかけているのである。なぜ、分からなかったのか。彼女の目が涙で霞んでいたからだというような説明は、この記事の真意をついていないだろう。ここで福音書が言いたいことは、復活の世界というのは、今の人間の世界と連続していないということである。人間の肉の目で確かめようとしても確かめることができないということではないかと思う。これは、復活顕現物語の一つの特徴的モチーフである。 . . . 本文を読む