ガラテヤの信徒への手紙5章2~11節。信仰によって義とされるとは、安直に聞こえることがあるかもしれないが、怠け者でも義とされるという意味ではないのである。それはキリストの恵みの十分性を最大限に尊重する教えなのである。キリストの恵みで十分なら割礼も律法の業も必要ではなくなるということである。キリストだけで十分なのに、別の何かで補おうとするなら、それは悪しきパン種の影響によるものだとパウロは言いたいのだ。早く自分の教えに立ち帰ってもらいたい。自分はこの福音のためにユダヤ人から迫害を受けてきた。ある意味で、命がけで宣べ伝えた福音なのだ。そのぐらい妥協の許されない教えなのだ。これがパウロがガラテヤの人々に強く訴えようとした大切な事柄であった。
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エステル記4章10節~5章8節。エステル記はバビロン補囚後ペルシャに残ったユダヤ人が、最高実力者ハマンのユダヤ人根絶計画から奇跡的に救われる話である。しかし、神様という言葉は一度も用いてこない。神様は歴史の綾の中に隠れておられる。しかし、隠れておられるようでいてすべてをご存じなのであり、すべてを見通して御心を行っておられるのである。エステル記を読むとそのことがよく分かる。 . . . 本文を読む
使徒言行録13章1~12節。伝道を始めるといろいろな人物に出会うものである。福音に好意的に耳を傾ける人がいるかと思うと、語りかけようにもとりつく島のないような人もいる。伝道者の心はその度に一喜一憂する。伝道が拒絶され、冷ややかに受け流されると、つくづく伝道の難しさを感じるものであるし、福音に関心を示す人と出会うと喜びと希望に満たされるのである。
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使徒言行録16章16~24節。本日の個所には、「占いの霊に取りつかれている女奴隷」が登場してくる。「占いの霊」というのは、原文では「ピュトンの霊」となっている。ピュトンとはギリシア神話でアポロンに退治された巨大なへびの名称で、英語のパイソン(python ニシキヘビ)の語源である。古代の文献では、腹話術を使って占いをする占い師にこの名称が使われているので、この女奴隷も巫女が行う口寄せのような託宣を語っていたのではないかと想像される。パウロが占いの霊に向かって、「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け」と命じて即座に退散させたのは、イエス・キリストのもとにおける本当の生き方への転換が必要であることを指し示している。 . . . 本文を読む
使徒言行録4章13~31節。我々は祈りにおいて、初めて人間の限界を超えてものごとを考えることができるようにされる。祈らない人は思い煩いと悲観主義の虜になって、何も出来なくなる。祈ることを学ばないと、何事にも展望は開けないのである。
本日の個所の祈りが、24節のところで、「主よ、あなたは天と地と海と、そして、そこにあるすべてのものを造られた方です」とまず語りかけている点に注目したい。 . . . 本文を読む
ローマの信徒への手紙8章12~17節。ローマの信徒への手紙8章でパウロが述べていることは、キリスト者には神の霊が宿っていて、この聖霊が神に従う新しい生き方を求め、また促しておられるということである。神の霊、聖霊が宿っているならば、聖霊の導きに即して生きることが、キリスト者の大切な課題になるはずではないかと、本日読まれた個所は述べている。
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使徒言行録2章1~13節。五旬祭(ペンテコステ)に弟子たちに聖霊が降ったということは、彼らが神の力を受けてイエスの弟子として本当に生かされることを意味するものであった。彼らはこの出来事によって、人間生来の力でイエスに仕えるのではなくて、神の力によってイエスに仕える者に変えられたのである。これは最初の弟子たちだけの問題ではない。私たちも洗礼を受けて信仰生活をするに当たって、この聖霊を受けているということを忘れてはいけないと思う。ペンテコステに注がれた聖霊は私たちのうちにも宿っているのだ。そして、その聖霊はそよ風程度のものではなくて、家全体に響くような力強いものであったことを思い起こすべきなのである。
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ヨハネによる福音書17章1~13節。聖書では正しい人の行うとりなしというものは、どのような働きかけにも増して、効果のあるものとされている。旧約聖書の創世記にアブラハムのとりなしの祈りの話があるが(創18章)、この祈りによって甥のロトはソドムとゴモラの破滅から救われたのである。アブラハムの祈りがなかったら、ロトは滅びを免れなかったであろう。また、新約聖書のヤコブ書には、「正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします」(5・16)という言葉がある。信仰の篤い人が祈るならば、神様は必ず答えてくださる(5・17)。正しい祈りが効果あるものであるとは、聖書の時代の人々の揺るがぬ確信だった。 . . . 本文を読む
ヨハネによる福音書16章12~24節。真剣に祈ってみると分かると思うが、本当の確信をもって祈るというのは、なかなか大変なことだということに気づくはずである。すなわち、自分の祈りは本当に神様のもとに届けられるに値するか、自信がなくなってくるのだ。罪も汚れもある自分が祈ったとしても神様は相手にしてくださらないのではないかという疑問が沸き起こる。ここに、キリストのとりなしによらない人間の祈りの限界があるような気がしてならない。
しかし、ヨハネ福音書は、イエスが聖霊の姿で来てくださるとき、我々と共にあって、祈りを補佐してくださると教えている。 . . . 本文を読む
ヨハネによる福音書15章1~8節。ぶどうの幹であるイエスとのつながりは、単に栄養補給にとどまらない。もっときめの細かい神様の配慮や訓練にあずかることになるのだ。「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる」。
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