中原聖乃の研究ブログ

研究成果や日々の生活の中で考えたことを発信していきます。

文化人類学学会で発表しました。

2015-06-01 00:33:52 | 研究報告

 昨日、文化人類学学会で「被ばくを語る『ことば』」というタイトルで発表しました。これまでは、ロンゲラップの被ばく後の地域再生や親族ネットワークを民族誌的な研究として発表してきたのですが、今回は全く新しい視点から話をしました。

 被ばく者は賠償の交渉の過程で、自らの病気や生態系の異変を、放射能と関連させて語るのですが、米国側の科学的な説明で、人々の体験したことが否定されてしまうという趣旨の発表にしました。科学論とも絡むので、、、つまりとても偉そうな発表なのです。でも、被ばくや放射能汚染問題に限らず、水俣病などの公害問題を研究している人ならば、どこかでこの科学の問題を研究する必要性にぶつかるのです。ですので、批判はあるだろうという予感は十分にありましたが、あえてチャレンジしました。

 早速、こんな批判を受けました。私が、発表の中で米国の研究者の研究を科学と呼んでしまうと、御用科学者を「正しい科学」としてしまうのではないか。科学でもなんでもないものを科学としてしまっていいのかということです。これに対しては、確かに一部その批判は当てはまります。ただ、私は「マーシャル諸島のがんは放射能とは関係がない」とか「流産の多発は気のせい」と言っているような科学を問題視しているのであって、決して正しい科学として認めている訳ではないのです。もちろん誤解を受けないようなことばの使い方、そして説明のしかたを私自身も身につけなければいけません。

 また、人々の語りを私の都合のいい言葉だけを選んでいるようで、もっと多数の声があるのではないかという指摘も受けました。これは、、、時間的制約としかお答えできませんでした。論文では詳細に記述するつもりです。

 

 これに関連して、発表で示された人々の言葉と、研究者の言葉は直接的なコミュニケーションなのか、という質問がありました。つまり、直接対話しているかと言うことですが、これはしていません。発表では、コミュニケーションの断絶という点も強調すべきだと思いました。「科学的議論の場からの排除」という説明はしたのですが、説明不足だったようです。科学者と人々はあくまで間接的で間に行政が入っているのです。これは重要な点です。

 もちろん、有益な情報もいただきました。核実験の被害と、米国の研究費の使い方などとの関連も調べた方がいいとのことでした。

 放射能被害と疾病の証明は大変難しい問題です。今回は二つのレベルがあることに気づきました。一つは、「作法・手続き」としての科学の問題。もう一つは、「運用」としての科学の問題。前者は、実験や証明の手続き・再現性・統計学的処理などで、後者は、「科学」の名の下に行われる政治的な行為とでも言ったらいいでしょうか。ちょっとうまい例が挙げられませんが、例えば、研究者が「その病気と○○の因果関係はわからない」と言った内容を受けて、政治家が「科学者はその病気の原因は○○ではないと言っている」というような場合です。

 今回の発表は、今年中にせめて草稿の段階までには仕上げたいと思っています。

 今回は、同じ時間帯で、原発事故の影響というとても魅力的な分科会があったので、私のところの参加者は10人いれば万々歳と思っていましたが、40人もの方に来ていただきました。強気で30枚用意したレジュメが全く足らず申し訳ありませんでした。次回も強気で発表します。次回レジュメは50枚必要ですね。きっと。