「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

欠史八代の天皇系図の不整合を考える。

2012-10-08 | 古代史

古代史を勉強して、如何しても疑問が消えないものの一つに天皇系図とその他の姓氏の系図の不整合性があります。天皇系図の方が3代程多くある考えられます。また、107年の師升王をスサノオ命であると述べていますので、時間軸上の問題が生じています。

この問題を考えて見たいと思います。

わたくしの論では、欠史8代の時期は九州に天皇がおられ、第7代孝霊・第8代孝元・第9代開花天皇は夫々行橋(黒田)・田川(香春)・春日に居られた事になっています。しかし、高天原が由布院にあったと考えられる事で、当初の『倭』は最初から『西倭』(ニニギ命)と『東倭』(ニギハヤヒ命)に分かれていた。と考えられ、『東倭天皇』が『建波邇安王』まで消されていると述べていました。

その後、考察を深めますと、どうも真実は違うようです。

『東倭』にて争いが起きて、ニギハヤヒ正統の天皇が(多分孝霊天皇)『西倭』の行橋・黒田に避難して其処から反撃をしていた(四道将軍)と考えるべきである。と思われます。

其の根拠となるのは、孝霊(大倭子日子賦斗邇命)・孝元(大倭子日子国玖琉命)・開花(若倭子日子大毘々命)の三人とも名前に『根』の文字がついております。この『根』は島根の出雲を表しているとも想われ、三人とも出雲をルーツに持つ『東倭天皇』であったと考えられます。

『建波邇安王』は叛乱軍の王であった。と視るべきでしょう。

 

また、『東倭』を『大倭』と呼んでいたとも考えられます。

そうしますと、第6代孝安(大倭帯日子国押人命)にも『大倭』があり、第4代懿徳(大倭日子鋤友命)にも可能性が出てきます。

そして、開花天皇は『若倭』となっていますので、『西倭王』になったとも解釈できます。

この様に考えますと、欠史八代の内、三代は出雲にルーツを持った天皇で、残る五代のうち二代(懿徳・孝安)は議論の余地を残す事になります。

 

記紀は西倭天皇と東倭天皇(大倭天皇)の名前を一緒にしてしまっているとも考えられます。

 

もし、仮にこの三代を東倭(大倭)の天皇とすれば、ニギハヤヒ命・・・・・孝霊―孝元―開花―崇神となり、西倭はニニギ命・・神武―綏靖―安寧―懿徳―孝昭―孝安ー開花―崇道(比古由牟須美命=彦湯産隅命)の流れとなります。天皇が重なるのは、孝昭と孝霊孝安と孝元となり、西倭には同時期二人の天皇が居られた事になります。

 

もし、仮にこの五代を東倭(大倭)の天皇とすれば、ニギハヤヒ命・・懿徳―孝安ー孝霊―孝元―開花―崇神となり、西倭はニニギ命・・神武―綏靖―安寧―孝昭―開花―崇道の流れとなります。

 

 

記紀を読み直して考察致しますと、

わたくしの想像では、第6代孝安天皇の時に、記紀の偽装がなされているように思えます。(孝霊・孝元・開花3代が大倭天皇)

孝安天皇大倭帯日子国押人命)(東倭の血の這入った西倭天皇と思われます。)は葛城室之秋津島宮(どうも由布院と考えられます。)に居て、姪(めい)の忍鹿比賣命(おしかひめ)を娶り、大吉備諸進命(おほきびもろすすみみこと)と大倭根子日子賦斗邇命(おほやまとねこひこふとにみこと)=第7代孝霊天皇の二柱が産まれた事になっていますが、この二人は根(出雲)方面からの避難者と想われ、孝安天皇には子供が居なかった考えられます。

そして、孝安天皇は葛城室之秋津島宮(由布院)にて兄嫁である宇奈岐日女命(宇那比媛命)の世話をしておられていたものと考えられます。

第4代懿徳(大倭日子鋤友命)の弟?の師木津日子命の子に和知都美命(久留米の御井宮に居られたと考えられます。)がおり、その子に二人の娘があり、姉が蠅伊呂泥(意富夜麻登久邇阿禮比賣)、妹が蝿伊呂杼と謂い、二人とも第7代孝霊天皇に嫁いでいます。と、されています時間軸の不自然さが解消され納得出来ます。

西倭の孝安天皇に子が無かった為、孝元天皇(大倭子日子国玖琉命)(東倭=大倭?)の子である若倭根子日子大毘毘命(開花天皇)が統一の倭王となったものと考えられます。

そして、玉垂宮に居られた崇神天皇纏向にて初めての『倭の統一』を成し遂げる事になります。

 

 

第4代懿徳天皇大倭日子鋤友命)にも大倭の文字がついていますが、第3代安寧天皇の子は常津日子伊呂泥命・大倭日子鋤友命・師木津日子命の三柱になっていますが、常津日子伊呂泥命は女性と想われ、根(出雲)へ嫁がせ、代わりに大倭日子鋤友命を養子として貰い受け、「換え姫(き)」的な事を行っており、東倭(大倭)との血縁天火明命邇邇芸命)の絆を深めていたものとも考えられます。第6代孝安天皇も血縁が繋がっており、大倭の名前が付いているものと覗えます。

 

 


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古代史は石渡信一郎から始まる (むらかみからむ)
2012-10-10 22:37:08
【古代史は石渡信一郎から始まる】
と信じています。ぜひ 以下の文 感想聞かせてください。。

『大和民族大移動』
*日本書紀編集者の良心の呵責を見抜いた石渡信一郎と林順治*

失礼無礼きわまりない話ですが、あなたが家系図を作成するとして、
実は、あなたのおじいさんが泥棒だったら、あなたはどうしますか?
昭和18年に隣の酒屋から酒5升盗んだ人だと正直に書けないですね。
でも、良心の呵責から、なんとかして泥棒行為を書き残したいですよね。
簡単です。じいさんに弟があり その架空人物が、盗んだ事にしましょう。
おっと、じいさんの弟はお墓が無くばれますね。では干支60年古くして
明治16年に、ひいひいひいじいさんの妹の夫が盗んだ事にしましょう。 

書紀は天皇様の見事な万世一系の家系図を書いた推理小説です。
太古から日本を統治していた事としたい。でも本当の事も書きたかった。
そのため、架空人物を多数創造した。時代も原則60年単位で古くした。
これが、真実を残すために書紀が取らざるを得なかった編集方針です。
もちろん、真実そのままの事も、どうしても書けない真実もありました。

では、架空実在人物が新旧入り混じった小説からの真実の救出法は?
 ①実在したご先祖のお墓や使用物の年代を正しく求めましょう。
 ②貴重な金石文を正確に読みましょう。
 ③地名や人名の語源を冷静に考えましょう。
この3つを追求整理したあとで 初めて日本書紀を読むべきですね。

石渡信一郎は、まず先に、上記①②③を 徹底的に、探究しました。 
①古墳や須恵器・土師器・埴輪の絶対年を正しく定めました。
 (過去の気象や磁気の変化を考古学の原則で追及した後に)
 例えば、弥生後期(5期)は260年頃から350年頃までとしている事
  及び 稲荷山古墳550年頃 で、鉄剣の辛亥年=531年
②七支刀・隅田八幡鏡・武寧王陵碑・稲荷山鉄剣を正確に解読した。
 (すみません。解読結果詳細は石渡氏と林氏の本を読んで下さい。)
③地名人名の語源を音韻変化の基本原則にのっとり追求しました。
 韓(カラ)⇒加夜(かや)・軽(かる)・茶屋(けや)・秦(はた)
大韓(カカラ)⇒大軽(おおかる)・各羅(かから)
南韓(ナムカラ)⇒難波(なには)・長柄(ながら)・中(なか)
東韓(スカラ) ⇒菅谷・早良(さわら)・日十(そか)・蘇我(そが)
大東韓(カスカラ)⇒飛鳥・春日・足柄・橿原・八幡(はちはた)
大東韓(キスカラ)⇒一須賀・石川・鬼前(きせ)・去来紗(いざさ)
大東韓(クスカラ)⇒樟葉・太秦・宇治(うじ)・太(ふつ)
昆支(コンキ)  ⇒誉田(ほむた)
  
今では信者のむらかみからむですが、石渡論の理解に半年以上です。
通説の古墳年代の根拠を知らず、通説年代は当たり前の事でした。
即ち、誉田山も大仙古墳も5世紀初頭と 無意識に思っていました。
さらに、百済皇子余昆が書紀では昆支だという事を忘却してました。

その昆支が倭の5王の武で、誉田山古墳に眠る応神でもある。
その弟が継体であり仁徳でもあり仁徳から武列までは架空である。
獲加多支鹵は欽明であり継体の子ではなく昆支の子である。
その息子がアメノタリシヒコで用明で蘇我馬子で聖徳太子でもある。
とくれば、なんでもありの飛んでも説をよくもここまでまじめに書くなあ。
石渡信一郎も林順治も トンデル人だ。と思ってしまいますよね。

しかし、音韻変化の原則から『飛鳥の語源は大東韓(かすから)だ』
の説明を熱心に 語っている文章の迫力には心を打たれました。
で、稲荷山鉄剣の辛亥年=531年で古代史を語る人は誰もいない。
の文章を読んだ時、この理論が他説を圧倒する事に気づきました。
通説の古墳年代を無意識に受け入れていた私がトンでいたのです。

なんと、小6の私の息子の社会の参考書にも書いてありましたが、
通説は稲荷山鉄剣の獲加多支鹵大王を書紀の中の雄略大王として
辛亥年=471年としてた。これを絶対基準に古墳年代を決めていた。
ワカタケルは大泊瀬幼武じゃない可能性の追求が甘いままでした。
おかしな話ですよね。書紀の記述が真実かどうか検討しているのに
書紀の記述の大泊瀬幼武の実在は真実からスタートしていたなんて。

結果的に、通説での全古墳の絶対年は60年以上古すぎたのです。
4世紀前半は弥生時代で、古墳時代はAD350年からなのです。
これは寒かった弥生後期5期が260年~340年頃でも裏付けれます。
『通説の古墳年代を 60年以上新しくして古代史を見直すべき』
との提案が石渡説の基本で他説との相違点で最重要ポイントです。
これが理解できないと石渡論はトンでる空想物語になります。

では、531年の根拠は?『完本聖徳太子はいなかった760円』より
①草冠ぬきの獲の字は 中国でも6世紀に初めて使用した。
②発掘関係隊長の斎藤忠も副葬品(銅わん等)から 531年説。
③稲荷山古墳と同年代の野々上窯の熱残留磁気測定結果。
④少し新しい江田船山古墳履が武寧王の墓の履と文様が似る。

石渡論は辛亥年=531年で須恵器や土師器や埴輪の年代を求めます。
典型例は『須恵器大成(田辺昭三)』を60年新しくしている事です。
で、全国の主要古墳年代を通説より基本的に60年新しく求めます。
さらに古鏡&刀の金石文と中国の文献で実存した人物の中から
その生存&死亡時期と照らし、各々の古墳披葬者を選び出します。
これで書紀に全く頼っていない石渡論の基本年表が完成します。

古墳------年代----被葬者
①箸墓-----385年頃-倭王旨(七支刀)   
②渋谷向山古墳-410年頃
③行燈山古墳--430年頃-倭王讃(宋書)
④五社神古墳--440年頃-倭国王珍(宋書)
⑤中ツ山古墳--450年頃-倭国王済(宋書)
⑥石津山古墳--475年頃-倭国王興(宋書)
⑦誉田山古墳--510年頃-倭王武・余昆(宋書)・日十(隅田鏡)
⑧大仙古墳---520年頃-男弟王(隅田鏡)
⑨見瀬丸山古墳-570年頃-獲加多支鹵(稲荷山鉄剣)
⑩太子西山古墳-585年頃
⑪石舞台古墳--620年頃-阿毎多利思比孤(隋書)
⑫天武陵(旧)-645年頃-ワカミタフリ(隋書)
⑬持統陵(旧)-645年頃

で、ここから初めてこの年表を書紀の記述と照らして検証していきます。
このとき、先述の音韻変化の原則から求めていた語源が役に立ちます。
コンキ⇒ホムタ や スカラ⇒ソガ や ウズ⇒フツは典型例でしょう。
こうして以下の本当の大王様の家系図の一覧表が探し出せました。

古墳---被葬年-本名-書紀の中の名前【家系図】
①箸墓---393-旨-ミマキイリヒコ【初代】
②渋谷向山-409-?-イクメイリヒコ【①の子】
③行燈山--438-讃-イニシキイリイコ【②の子】
④五社神--442-珍-ワカキニイリヒコ&ワカタラシヒコ【③の弟】
⑤中ツ山--462-済-ホムタノマワカ&尾張連草香【③の孫】
⑥石津山--477-興-カワマタナカツヒコ&凡連【⑤の子】
⑦誉田山--507-武・日十・余昆-昆支&ホムタワケ【⑤の子の婿】
⑧大仙---531-男弟-ヲホト&オホサザキ【⑤の子の婿。⑦の弟】
⑨見瀬丸山-571-ワカタケル-アメクニオシヒラキヒロニワ&蘇我稲目【⑦の子】
⑩太子西山-585-?-ヌナクラノフトタマシキ【⑨の子】
⑪石舞台--622-アメノタリシホコ-タチバナノトヨヒ&聖徳&馬子【⑨の子】
⑫旧天武陵-645-ワカミタリフ-善徳&蘇我蝦夷【⑪の子】
⑬旧持統陵-645-?-蘇我入鹿【⑫の子】

大和民族は『うるわしの土地』を求め大陸から大量に移動してきました。
まずは西暦330年頃から半島南部を、460年頃からは百済を通って。
1回目の代表は旨(崇神)、2回目は武(応神)&男弟(継体)です。
で、各々の起因は1回目が楽浪郡の崩壊、2回目は高句麗の南下です。
書紀の隠したこの事実は、現代日本人には小説(書紀)よりも奇です。
というより、受け入れがたく、石渡論を無礼者と思いますよね。

しかし、考えようによっては当たり前だったのではないでしょうか?
大陸は寒かった。温暖な飢えない日本列島は『うるわしの土地』だった。
新羅を置き去り、自ら大和民族大移動し、海を渡り来ていたのですよね。
さあもう21世紀です。石渡論が世に出て4半世紀も経ってしまった。
ぼちぼち古墳を60年新しくして、真実を考え、受け入れませんか?。

隣家の酒樽から酒5升分のお金が入ったじいさんの名前の財布が
見つかった。稲荷山古墳の鉄剣・隅田八幡鏡・七支刀のことですよ。
じいさんはお酒を飲んでお酒を買いに行き転んだ。よかった。無実です。
ひいひいひいじいさんに妹夫妻はいなかった。雄略大王もいなかった。

まだまだまだまだ書きたいことありますが 最後にまとめを書きます。

石渡論は古墳年代を正しく求めスタートします。そのあとで書記です。
ところが 不幸な通説は架空雄略大王の実在からスタートし迷走中。

石渡信一郎が真にすばらしいのは 日本書記の編集者たちが持つ
・ひとりの実在人物をふたり・さんにん・・と分けざえるを得ない苦悩。
・架空大王をひとりふたり・・30人31人と創造せざるを得ない苦悩。
・時代を60年120年180年240年・・神話へと古くせざえるを得ない苦悩。
すなわち、『真実が書きたい』と言う叫びを痛切に理解している事です。

見事な万世一系の筋書とは異なる飛んでた真実があるのだから
書紀は真実を書けば書くほどでたらめになる自己矛盾を持つ。
書紀は でたらめではない。でたらめにならざるを得なかった。
石渡説がトンでるのではない。飛ばされた真実を探しているのです。
『飛ばして申し訳ないという良心の呵責を持った家系図』も眠るはず。
これを見抜き信じるから、真実が救い出せるのです。すばらしいです。

私は近日、以上を前書きに『大和民族大移動』という本を買きます。
石渡信一郎を東大か京大の古代史教授に推挙するために。。で、
副題は『書紀編集者の良心の呵責を見抜いた石渡信一郎と林順治』


で、聖徳太子と蘇我馬子と用明大王 そして アメノタリシホコは
すべて たった一人の人物です。その人を分けて書いているのです。

とにかく皆さん 両先生の本 読んで古代史考えましょう。で、早いのは、
『古代史の謎を探る』か『倭韓交差』か『むらかみからむ』でネット検索。
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