「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

九州王朝を紐解く、垂仁・崇神天皇と欠史8代の王。7

2011-12-04 | 古代史

第7代孝霊(こうれい)天皇は『黒田廬戸宮(くろだのいほとのみや)』に居住、『片丘馬坂(かたおかうまさか)』に埋葬したとあります。

 

現在、奈良県磯城郡田原本町黒田・宮古が住居で、埋葬地は、奈良県北葛城郡王子本町の尾根にある古墳を比定地にしているそうです。

 

此の『黒田』は、行橋の傍、みやこ郡勝山町黒田とも考えられます。香春町の東にある山並み(仲衷峠)の向こう側に位置しています。直ぐ傍には稗田阿礼(ひえだのあれ)の出身地と言われる稗田(ひえだ)があります。ここは後で景行天皇も行宮(かりのみや)を暫らく置いたと言われている地の傍です。

 

片丘馬坂』とは、直ぐ近くにある標高216mの馬ヶ岳と考えられます。

 

 

第6代孝安(こうあん)天皇は、『室』に住み、玉手丘(たまてのおか)に埋葬とあります。奈良県の御所市に『室』の地名があり、一般には其処の事であると信じられています。

 

室見川中域の、西区、飯盛山近くに、野方遺跡吉武・高木遺跡夫婦塚古墳があります。此の吉武・高木遺跡は、弥生時代前期末から中期初めにかけての王墓と謂われており、青銅の剣、矛、勾玉、朝鮮半島製の多紐細文鏡(たちゅうさいもんきょう)などが出土しており、これらの副葬品は国の重要文化財になり、福岡市博物館に展示されています。

 

『室』とは、福岡市の室見川(むろみがわ)一帯の事だとも想われます。が、しかし、『玉手の丘』であると考えられる名前が出てまいりません。

 

後考えられるのは、『室』の字は八女市の岩戸山古墳群の中にある弥生時代前期から末期にかけての室岡遺跡群にも覗えます。傍には『岡山』と名のついた丘もあり、此処からは、鉄を再加工生産していたと想われる痕跡も発掘されています。まだ、王の墓が発見されていませんが、将来見つかる可能性を秘めています。どうも、此処、八女市室岡遺跡群か博多の吉武・高木遺跡近くに居を構えていたものと考えられます。

 

と謂うことで、九州に第6代孝安天皇が居た可能性を否定出来ないと謂う事に考えられます。

 

 

第5代孝昭(こうしょう)天皇は、『葛城の掖上(かずらぎのわきのがみ)』で住み、『掖上(わきのがみ)の博多山』に埋葬した。とあります。

 

『掖上(わきのがみ)』が何の事を謂うのか不明ですが、ネット地図にて福岡市明治道り、の早良区西新に脇山口(わきやまぐち)と謂う地名が(交差点)が見受けられます。

ずうっと早良街道(国道263号線)を辿ると、油山(597m)の流れの山に脇山が在りました。早良区の奥に脇山小学校や脇山の地名があり、正しく、合致しました。

 

地域の人が呼んでいる早良王は、第5代孝昭天皇を指す事になります。

 

この方も九州に居たと比定されます。しかし、此のお方は、尾張連(おわりのむらじ)との婚姻を結んでいる事になっていますので、途中、飛鳥にも足を運んでいるとも想われます。

 


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 九州王朝を紐解く、垂仁・崇... | トップ | 九州王朝を紐解く、垂仁・崇... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

古代史」カテゴリの最新記事