「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

九州王朝を紐解く、垂仁・崇神天皇と欠史8代の王。5

2011-12-02 | 古代史

崇神天皇以前は如何であったかが気になります。一緒に紐解いてみましょう。

 

 

 まず、都を定める条件を頭に治めましょう。飲料に適した水や、環濠に廻らす堀や稲作用の川・豊かな米や野菜が収獲出来る広い平野・薪に用いる雑木が沢山ある山・何時でも収穫して食料を調達出来る海の潟等が必需です。そして、都(環濠)の近くには溜池が多く在ったと想われます。

 

日本書紀には開花天皇は『春日』に居て、春日の『率川(いさかわ)の坂』に埋葬した事になっています。

 

『春日』は現在の奈良公園の周辺で、率川(いさかわ)はその地を流れる小川の事だそうです。埋葬地である『率川(いさかわ)の坂』は奈良県油阪町坂上にある念仏寺古墳を比定地としているそうです。

 

 仮に、第9代開花(かいか)天皇が崇神天皇の親で、北部九州に居られたと考えましょう。

春日の名前は、福岡に春日市があります。

率川(いさかわ)と呼ばれる川は、ネット地図で見ても見当たりません。

ここで、想像を廻らします。当時と現在は呼び名が異なって居るかも知れません。可能性がある川を探ります。

春日地域に流れを持つ川で、当時も在っただろうと想われる川は那珂川(なかがわ)と御笠川(みかさがわ)があります。その両川の間に春日市が在るようです。近くには溜池が点在しており、その中に日拝塚古墳と須玖・岡本遺跡があり、奴国の丘歴史資料館があり、春日神社や春日公園も認められます。

 

次に、『福岡の古墳マップ』で福岡県の古墳の分布図を見てみますと、糸島から春日・筑紫野市・箱辺りにかけて集中しています。また、行橋から苅田にかけて、久留米から八女にかけてあります。後は、豊前中津・甘木・朝倉・耳納山麓・大牟田に在ります。

日拝塚古墳を調べてみますと、前方後円墳で築造時期は6世紀前半と推定。となっています。是は違います。

 

須玖・岡本遺跡を奴国の丘歴史資料館に問い合わせをして、いつ頃の遺跡か伺いますと、紀元前1~2世紀頃からの物だそうです。可能性が有りますので、足を運び検証を行うことにしました。

 

 

2011年11月16日、快晴の下『奴国の丘歴史資料館』へ伺いました。

 若い男性職員の方が対応に出て参られ、須玖・岡本遺跡について概要を伺うと、弥生時代中期から古墳時代に架けての遺跡だそうで、

パンフレットによりますと、1899年(明治32年)前方後円墳から偶然発見された甕棺の内外から、30面前後の中国鏡やガラス壁(宝器)をはじめ銅剣、銅矛、銅戈といった青銅製の武器、ガラス勾玉や管玉など多数の貴重な品々が出土したそうです。

甕棺の上には、長さ3.3メートル、幅1.8メートル重さ4トンの上石が置かれていましたそうで、この甕棺墓は、他の墓から離れてつくられ、ことのほか手厚く埋葬されていることから、奴国王の墓と考えられているそうです。

 

そして、年代的には、後漢の光武帝から金印を賜った王より数世代前の王

の墓と推定されているそうです。

 

此処に、天皇が居られた痕跡は在りませんか。と訊ねますと、その痕跡は出土品の中からは認められませんでした。と言われました。

 

 やはりそうか。と想いながら、直ぐ目の前の遺跡調査資料棚に目をやりますと御陵遺跡と書かれた遺跡調査報告書が目に付きました。

御陵遺跡と書かれた資料を手に取り、この御陵とは、誰が、何時、何を根拠で名づけたのか伺いますと、『普通は遺跡の出た場所の地名で名づけるのですが、ここの遺跡は、地域の人々の口伝で名づけられた。』由。

 

 

御陵とは、高貴な特別な言葉で、普通は天皇が居られた場所を意味しているものと想われます。

 

 

9代開花天皇は此処に居られた可能性が大いに有る。と考える事が出来ることになります。

 

 

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