「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

九州王朝を紐解く、垂仁・崇神天皇と欠史8代の王。6

2011-12-03 | 古代史

次に、第8代孝元(こうげん)天皇です。

住まいは『軽(かる)之堺原宮』で、埋葬地は『剣池(つるぎいけ)の中岡之辺り』です。

 

奈良県橿原市大軽にある『剣池』の傍にある古墳が孝元天皇の墓とされていますが、此の池は、第15代の応神天皇が作ったとされており、此の古墳も箸墓古墳と同じ時代か、少し古い古墳ではないかと言われており、疑問の余地が残されております。

 

北部九州にあったと仮定して、『軽』(かる)とは何処の事でしょう?

まったく思い浮かべるあてが有りません。(かり)と呼ぶのであれば刈を連想して北九州の苅田や久留米の苅原がありますが、(かる)と(かり)、これは違うようでもあります。しかし、否定は出来ません。

 

ネット地図にて、博多湾一帯・行橋一帯・有明海一帯を探しましたが、出てきません。地名を諦めて『剣池』に切り替えました。『剣』をキーワードにネット地図にて探すと、鞍手町に剣岳(126m)があります。

『軽』と鞍手の『鞍』には何か関係があるのでしょうか。近くには、遠賀川が流れており、遠賀川の下流には弥生時代前期の遺跡、立屋敷遺跡もあり、木月池があります。浮洲池や幾つかの池も見受けられ、剣神社・八剣神社・熱田神社もあります。此処は御所の条件が揃っています。

剣岳の中腹にある熱田神社若しくは八剣神社も気になります。

熱田大神とは草薙剣の神霊のことだそうです。

景行天皇の時代、日本武尊が東国平定の帰り、尾張で、宮簀媛命(みやさくひめみこと)と結婚し、草薙剣を妃に預けた。日本武尊が伊勢国能褒野(のぼの)で亡くなると、妃は尾張熱田にて社地を定め、剣を奉斎鎮守したのが熱田大神の始まりだそうです。

 

剣池とは木月池?の事だと想われなくも無いです。

また、『丘の上』とは、剣岳の近くの丘陵とも察せられます。

『軽』は立屋敷遺跡ではないでしょうか。との想いで、心の中で先祖(息長)に問いかけますと、間違っている由。

想い直して推考を重ねました。そして導かれたのが、『軽(かる)』は『香春(かはる)(かる)』の事ではないだろうか。との仮説です。

 

古事記にて、第8代孝元天皇の条項を再度見てみますと、軽之堺原宮(かるのさかいはるのみや)に居を構えて剣池之中岡(つるぎいけのなかおか)に埋葬したと記入されています。

ネット地図で香春町から大任町秋永辺りを視て見ますと、柿原、平原、今任原、中津原が

あります。どうも、香春神社の前の中津原辺りに王宮があったと考えられます。

 

また、剣池之中とは、剣池の中の丘、と解釈して鏡山の事に考えられます。

鏡山は、平地である田んぼの中に『おむすび』の様にポッコリと盛り上がった古墳にも見える感があり、古い昔は、此処の周りが池であったと想われます。

その様に考えますと、鏡山周辺が、古代は『剣池』であったと謂う事に考えられます。

 

そうしますと、宮内庁が管理している鏡山の河内王の古墳は、第8代孝元天皇の墳墓と考える事が可能です。

 

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