「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

大己貴命の出身地は甘木朝倉である。と推察されます。

2013-11-20 | 古代史

大己貴命は出雲神話に出て来て、中国山陰地方にて活躍されたお方でありますが、

(わたくしの説では)崇神天皇は久留米市城島(しき)の瑞垣宮(玉垂宮)に居られ、疫病が流行って困り果て、「大物主命(大国主命=蛭子尊・大己貴命)の祟りかも」と思い、大物主命の末裔の大田田根子命(此のお方は、わたくしの説では豊後杵築市の出身と謂う事になっています。)を河内(高良内)の美努(みの)(耳納)にて見つけて、筑前甘木三輪の大己貴命神社他八十社で祀り挙げて疫病を治めた。事になっています。

この大物主命(大己貴命・大国主命=蛭子尊)は出雲で活躍された人であるにも関わらず何故九州の甘木で大己貴神社として祀られ存在るのか?がずーっと疑問でした。

今日はこの事を考えて診たいと思います。

 

記紀においては、大己貴命の出身地は記入されておらず、天之冬衣神(あめのふきねのかみ)と刺国若比賣命(さしくにわかひめ)の子とされ、出雲に出現して建速須佐之男命の娘とされる須勢理比賣命を娶り、苦難の末出雲に居つきます。

大己貴命は何故か九州宗像の多紀理比賣命をも娶り、阿遅志貴高日子根命(迦毛大神)や下照比賣命(此のお方は、高比賣命とも呼ばれ後に高天原から使わされた天之若日子命と結婚しますが、天之若日子命は高木神の「返し矢」にて亡くなります。)を儲けています。

大己貴命は八上比賣命や神屋楯比賣命等数多くの女性と結婚をし、沼河比賣命との間には後に高天原から派遣された建御雷之男命と戦うことになる建御名方神を儲けており、このお方が大己貴命の跡取りで在った事に為っています。

 

大己貴命の神話では、稲羽国の八上比賣命との結婚を求めて居た兄弟神である八十神(やそがみ)達の大己貴命への迫害で、母親の刺国若比賣命(さしくにわかひめ)が高天原(由布院)の神産巣日神に助けを求めて行き、杵築に居たと考えられます大屋毘古命(おおやびこ)の処に匿(かくま)います。

この大屋毘古命は五十猛命(いそたける)(わたくしの解釈では五十人(おおぜいの意味)の須佐之男を支える武士団の総称の一人)で在ったと謂われています。

執拗に追って来た八十神(大勢の武士団)が大屋毘古命に大物主命の引渡しを求めますが、大屋毘古命は須佐之男の居る「根の堅州国」に逃がしています

 

わたくしの説での解釈では島根県因幡方面から逃げてきた大己貴命を再び島根出雲方面に逃がすとは考えられません。

 

此れは甘木朝倉から逃げてきた大己貴命を島根県安来市の「根の國」の須佐之男命の処に逃がした。と謂う解釈になります。

そうすると、崇神天皇が「大物主命の祟りでは?」と考え大田田根子命を探して、(福岡県大刀洗町高橋邑にて)甘木三輪山麓の大己貴神社他八十社で斎祀った行為が腑に落ちます。

と謂うことは、天之冬衣神(あめのふきねのかみ)と刺国若比賣命(さしくにわかひめ)は甘木朝倉地域に棲んでいたと考えられ、其処から刺国若比賣命は大己貴命を連れて由布院(高天原)の神産巣日神(耶蘇杵=瓊瓊杵尊=アマテル=饒速日命と、同一人物と考えられます。)を頼って行き、豊後杵築の大屋毘古命の処に匿ってもらった。事に為ります。

大田田根子命の出身地は、杵築に加えて甘木朝倉も考えられる事に為ります。

 

この様に、古事記では大己貴命八上比賣命の条項では、倭(北部九州)での出来事が因幡地方に置き換えられている事が判ります。

 

わたくしには、大己貴命朝倉に居る時に宗像の多紀理比賣命を娶り、阿遅志貴高日子根命(迦毛大神)や下照比賣命を儲けているものと想えます。

 

阿遅志貴高日子根命(迦毛大神)と、賀茂建角身命(八咫烏=大山咋=琴平神=阿蘇氏豊玉姫の弟で、神武天皇=崇神天皇=須佐之男命 の祖父になります。)は、別人と考えられます。

 

検めて、大己貴命の出身地は甘木朝倉の大己貴神社周辺であったと考えられます

その根拠は、朝倉の隣りの、うきは市山北に在る「賀茂神社」であります。

縁起には、「賀茂大神(=阿遅志貴高日子根命では無く、賀茂建角身命を指しています。)は最初にこの地に天降り鎮座され、神武天皇が日向から大和へ東遷のみぎり、宇佐から山北へ来られ賀茂大神は八咫烏(やたがらす)となって御東幸を助け奉られたので、今も神武天皇と賀茂大神(賀茂建角身命)を奉祀する。」と1651年の旧記に述べられています。

賀茂建角身命は自身の出身地の故郷である田主丸町川会邑(瓊瓊杵尊から『カワイの國』を賜ります。)に足を向けたものと考えられ、その後近畿に渡って京都の賀茂御祖神社(賀茂建角身命)にて祀られたものと捉えられます。

京都にある賀茂御祖神社の由緒には、「日向国曽の峰に降臨した賀茂建角身命は神武天皇を先導して大和(豊後の事です。)の葛木山(ゆふいんを指しています。)に宿り、さらに山代国岡田の賀茂に移り、その後、久我国の北山基に鎮座。・・・」とされています。

賀茂建角身命は日向国にて神武天皇を大和(ゆふいん高天原)まで先導した事になる。とも解釈され、近畿にある熊野~吉野を案内した。とは考え難いと思われます。

 

《その後の考察で、追補》

大己貴命の出身地は、福岡県朝倉市林田 『美奈宜神社』(祭神は、大國主命=大黒様・スサノオ=祇園様・事代主神=恵比寿様)傍の『余名持』ヨナモチ地区と、考えられます。此の地区には、鹿児島県曾於郡の『太耳=弥五郎どんの先祖と想われます。』の娘を娶った『耶蘇杵』は、『高躬結び神』の長男で、久留米市大石町の白山姫=天御中主命=菊理姫=潜り姫命も娶っています

わたくしは、『耶蘇杵』は、八洲廻りを行った塩土翁・瓊瓊杵尊・大幡主命・神産巣日神と、同一人物。と考えています。

百嶋由一郎様も、『瓊瓊杵尊』の父親は『天之忍穂耳命』ではなく、『高躬結び神』であろう。と、述べられています。

ホツマツタエの叙述でも、『天忍穂耳命』は病弱で、『阿智彦=八意思兼命』と妻の『下照姫』がずっと一緒に付き添っていた。と述べられています。

『天忍穂耳命』が『瓊瓊杵尊』を儲けた記述はありません。親子の関係は、歴史を積み増す為の、藤原不比等の捏造と考えられます。

わたくしには、『瓊瓊杵尊』が『アマテル』=『火明り命』=『饒速日命』と、同一人物で有ったろう。と考えられます。

徳永氏=大己貴命の末裔と想われ、家紋は全て剣花菱=木瓜(高躬氏族の家紋です。)です。徳永家が十数軒、花田家=出雲から青森に行った大己貴命の家来と考えられます。も数軒在ります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


コメント (2)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 地名から紐解く古代史。 | トップ | 『倭の大乱』の真相。と考え... »
最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (akinagakematsuei)
2013-11-21 12:00:20
2011-11-07の秋永家に関するブログ拝見しました。
非常に興味深く、考察力の高さに感服いたしました。
実は私も秋永家の末裔で、秋永は昔三重県鈴鹿に本籍をもっておりました。まさに秋永町の近くです。

秋永勝彦氏の家系図のことで質問なのですが、「房前の系に秋永山と書かれ」の秋永山とはどういうことでしょうか。何分私は理系の人間で歴史等には疎いもので。

秋永家は藤原北家と血縁にある(直系?)ということでしょうか。
返信する
秋永山について (秋永祥治)
2013-11-24 19:48:59
ブログをご覧頂きありがとうございます。秋永山は藤原房前の次に6人の名前があり、最後に記入されていました国重の欄の横に信濃國秋永山云々(解読不明)と記入され、国重の下に秋永弾正が記入されていましたが、わたくしは、秋永山は信濃に在るものと考えて新潟・長野方面を探しましたが見つける事が出来ず、全国に秋永を検索しまして、鈴鹿に秋永町を見出し三角縁神獣鏡が保管されています真宗秋永山真昌寺に秋永山を見出しましたが、仏教では「何々山」と、お寺の名前の前に記入されます。此処に出てくる「秋永山」は何処を意味するかは不明でありますが、「息長山」とも捉えられ、琵琶湖周辺例えれば息長丹生真人長人が修行をしました「霊仙山」周辺かも知れません。
藤原氏の本貫地は九州大分県日出町であると考えられます。藤原氏も息長氏を婚姻を通じて取り込み、勢力を誇示したものと考えられます。
返信する

コメントを投稿

古代史」カテゴリの最新記事