「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

尾張氏の本貫地に挑む。その1。

2012-02-29 | 古代史

 

音楽やオーディオが趣味で、古代の事など全く興味の無かった私が見た。たった1枚の写真から、こうやって古代に想像を廻らして1年、他人の考えをしっかり聞き、柔軟なバランス感覚で考えて判断する事。一番気を附けなければならない事は、「執着しない事。」と自分に言い聞かせています。が、中々そうは往きません。

 

「欠史8代は九州王朝。」である。としている私の頭の中では、「記紀に書かれている第10代崇神天皇までの出来事は北部九州での話であるべきです。」と謂う執着があるのです。

 

そして、大きく立ち、阻むのが、「尾張氏」です。この「尾張氏」は、古代2~3世紀頃までは北部九州に居たものと考えないと整合しないのです。

 

ウィキペディアによりますと、{古代の地方の豪族とされ、日本書紀には、天火明命(あめのほあかりのみこと)を祖神として天忍人命(あまのおしほみのみこと)から始まる。

 

本貫地は諸説あり不明である。美濃・飛騨などに居住の後、乎止与命(こしよみこと)の時、尾張国造となった。}とされています。

 

この古代の「尾張氏」の本貫地を紐解かなければ、本当の歴史の姿が見えて来ません。

 

と謂います訳は、私が福岡県博多に居たと比定しています第5代孝昭天皇は尾張から世襲足命(よそたらしひめ)を娶ったとされています。

 

当時の時代に岐阜県~愛知県から福岡県に嫁に来る。この様な事は考えられません。皆さんも、荒唐無稽な事である。孝昭天皇は奈良県大和に居た。と馬鹿にされた事でしょう。

 

しかし、私の執着のある頭の中では、必ず九州内から嫁に来ている。と想われます。

 

私の知識では、九州で「尾張」と謂う言葉は、まったく浮かびません。「本当に九州に居たのでしょうか?」執着に囚われ過ぎでは、との思いが過ぎります。

 

過去、幾多の、専門知識と天才的頭脳を持った研究者が人生を駆けて考えても解からなかった本貫地を見つけようと試みるとは僭越至極である。とも想います。

 

 

そして、取り付く島も無い、2千年近く前の人の暮らしの事をどうやって解明し、皆さんに納得して頂けるだろうか。と考えると気が萎えてきます。

 

 

 


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