「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

天皇家(皇室)には『袁氏』(漢族)の血が這入っている。と考えられます。

2015-08-23 | 古代史

2015年7月12日(日)わたくしの秋永氏(息長氏)の本貫地であります、(福岡県田川(鷹羽)郡大任町大行事秋永の地名が在ります)大任町レインボーホールにて内倉武久氏の講演を伺いに行きました。

鹿児島県大隈半島肝属市出身で、現在大阪府在住の内倉氏は朝日新聞在籍時代より、多くの古代史研究者に関わりを持たれており、中国古代史・中国民俗人類学・日本の考古学・文献学を、幅広いジャーナリストの立場の視野で考察をなされておられ、考古学的な状況証拠(例えば近畿にあります巨大前方後円墳の石棺に九州熊本産の石が運ばれて使用されている事。)でも古代には九州(倭)に天皇(すめらのみこと)が居られた。と考えておられ、九州の熊襲は、周に繋がる姫(紀・木・基・杵)氏であり、熊本・鹿児島が源流で、その後列島を席巻した。と研究者の注目を大きく集めておられます、『倭(ゐ)の根源』を客観性をもって研究されています最新の論者であります。

その説の中で、熊襲と謂われています熊本県菊池市の『松野連』の系図(国会図書館に収められている)の中で、松野某氏の名前の但し書きにて『姫氏』と入れられており、松野氏は紀元前473年、周太白(しゅう・たいはく)に繋がる呉が滅んで沖縄~奄美の南方経由で熊本に遣って来た『姫氏』が『紀氏』に成ったものであろう。と述べられており、

此れまでの『紀氏』は熊襲ではなく、新羅経由で遣って来た天孫族であろう。と考えられて来ていた概念を覆す古代史研究の大きな問題提起であります。亦、倭(い)の五王(讃・珍・斉・興・武)も『松野連』の系図に記入されており、九州に狗奴國(こうどこく)と邪馬台国(やまいこく)、即ち倭国(ゐこく)が在ったのは明白であろう。と考えておられます。

熊襲であります狗奴國の『狗』とは犬を表し、『犬祖伝説』を持つ中国南部(福建省・浙江省・雲南省・湖西省)の少数民族畲族(しぇ・そを) ・ヤオ族・リー族(海南島)が黒潮海流に乗って遣って来ているものと考えるべきであろう。と述べられ、房総半島に伝わる『南総里美八犬伝』の物語も『犬祖伝説』を持つ中国南部の人達が日本に遣って来ている証拠の名残りと考えられる由。

鉄や馬の日本=倭(ゐ)への伝播も、海流の問題で手漕ぎ船での対馬海峡横断より、中国南部の広州~海南島方面から遣って来る海流(最大4.5ノット平均3ノット前後・1ノットは1,852m)を利用して奄美・沖縄経由で遣って来た方が現実的あろうと考えられる。と、野生馬で有名な串間市都井岬や串間市から出土した33.2センチ・重量1.6キロも有ります中国(広東省)南粤(なんえつ)(BC203年頃の建国BC111年滅亡)に繋がると考えられます日本國国宝の『玉璧』を述べられ、縄文から弥生に掛けては熊襲(九州隼人)にての人・馬・鉄器・稲作・焼畑・墳墓(地下竪穴式横穴墓)の中国文化流入が考えられると述べられています。

亦、京都の下賀茂神社で行なわれます馬と弓矢を使った流鏑馬(やぶさめ)も、源流は南九州鹿児島~宮崎であろう。とされ、千葉県銚子近くにあります『鴨川』・『内之浦』の地名を挙げられ、全国各地に熊襲(賀茂氏・内氏)が進出したものと考えられる。と述べられています。

内倉氏は建内宿禰命(たけし、うちのすくね)や内色許賣命(うちしこめ=大矢口宿禰の子)に繋がる和邇・賀茂海人族と関係が深い『内』氏であり、

『内』氏の本貫地は鹿児島東部~串間辺りで、『畲族(しぇ)は自分たちをソヲ族と呼び、『ソヲ』は曽於郡が重なり、『玉璧』{中国(広東省)南粤国(なんえつ)から遣って来ていると考えられます}と一緒に在ったとされます三十数本の『鉄族・鉄器』・都井岬の『自然馬』・宮崎の『焼畑』・鹿児島の『墳墓』(竪穴式横穴墓)を挙げられ、倭(ゐ)=九州の人達は南方の中国~ベトナム辺りから遣って来ているであろう。』と考えておられます。

実に説得力のあります論理で、首を促され、わたくしの説の根幹であります、狗呉{天孫降臨以前に倭に遣って来た人々}と天孫{秦に繋がる秦氏(幡)が新羅経由で遣ってきた人々}の関係を再構築しなければならない認識に至りました。

 

わたくしの考察でも、狗奴国(こうどこく)は菊池市に考えられ、下照比賣命(伊香色謎命=玉垂命)とその子であります崇神が久留米市の城島(しき)に居た。と考えており、狗呉と組んだ崇神(卑弥弓呼)が糸島~博多湾辺りから船出して長髄彦命=日子坐王の居る苅田市富久町を目指したもの。と解釈しています。しかし、『紀氏』そのものが『熊襲』(熊・曾於)であれば、『天孫族』(海人族)の定義が大きく変わり、認識を変えねばなりません。

『崇神』そのものが物部熊襲(狗呉)であった事になります。

『崇神』と争った和邇氏から生れた『日子坐王』も『熊襲』(熊・曾於)であったろう。と謂うことに考えられます。しかし、邪馬台国の卑弥呼(宇那比姫)は漢民族と考えられます魏を頼って狗奴國と戦っており、此の『和邇氏』・『尾張氏』は秦氏(幡氏)に繋がる漢民族系で有ったとも感じられます。

記・紀では、高木神の娘であります『萬幡豊秋津師比売命』(よろづはたとよあきつしひめのみこと)と須佐之男と天照大神の倭に残した遺児とされている『天忍穂耳命』が結婚し、天火明命と瓊瓊杵尊を生んだと述べられ、瓊瓊杵尊が韓国と向きあう笠沙の岬(糸島と考えられます)へ天孫降臨をした事になっており、如何も高木神と和邇氏・尾張氏は『新羅経由の秦氏一族』(天孫族=漢民族系)であったと感じられます。

わたくしのブログの切っ掛けに為りました耶馬溪雲八幡宮の秋永勝彦さまが若狭から五人で九州へ遣って来られ、別れた残り四人の秋永氏の末裔は佐賀県多久市東多久納所に住み着いたものと考えられ(納所地区10軒の秋永さまの家紋が『花剣菱』で、秋永勝彦さまの家紋と一致していました)、此の多久地区から大和町に架けては秦の末期に徐福一行が大勢遣って来ているとの伝承があり、お茶の発祥の地とも謂われています。

古事記においては、第2代綏靖天皇が師木(城島)県の河俣毘賣命(かはまたびめ命)・第3代安寧天皇が波江(山門郡の飯江)の阿久斗比賣命(あくとひめ命)・第4代懿徳天皇が師木(城島)県主の子である飯日比賣命(いいひひめ命)を続けて3代に亘り久留米~大川~山門郡辺りの豪族から娶っていますので、此処有明海沿岸は熊襲(狗呉)の本貫地でありますので、

王家にも可なりの熊襲の血が流れている事が解かります。

しかし、天皇家は如何も、自分たちは熊襲(狗呉)とは考えては無いようです。記・紀では『熊襲』『犬』と蔑視した表現を使っており、此の疑問を今日は考えてみようと思います。

 

 

わたくしは、『息長氏』のルーツは『海棠槙人』さまが述べられています、沖縄(おきなが→おきなわに変化)の『翁長氏』(おきなが→おながに変化)と考えており、製鉄技術を齎した『天御影神』の先祖は南方経由で来ている。と考えていましたが、内倉武久さまの説でも『古代製鉄』は越方面経由で来ている。と考えられるとの事。記紀に出てくる『天御影神』の先祖は多分、南方経由で来たものと考えられます。

鹿児島県では、磯長氏(息長氏)が認められ、カルフォルニアワインを開拓した磯永彦輔(長澤鼎)は鹿児島市出身で、息長氏と考えられます。天御影神の先祖は鹿児島~串間市辺り=曽於郡が本貫地で有ったろうと想えます。

その後西暦107年に須佐之男命が息長(磯長)氏を始め九州各地のリーダーであります反対勢力を後漢(洛陽)に生口として献上したものと考えられ、洛陽には倭人町があった、と考えられます。

洛陽で世代を重ねた息長氏は後漢の豪族『氏』(漢民族)の援助を受け出世したものと想われます。

氏』の発祥は黄河の南の河南省で、此処河南省に洛陽もあります。後漢時代後期三国志の有名人は袁紹袁術が居り、袁術の父の袁逢や其の父にあたる袁湯が有名であります。漢民族では『氏』は名門で、遠祖は五帝のひとり『』に遡る。と謂われております。

天御影神と娘の息長水依比賣命及び『氏』達が倭に遣って来ているものと考えられます。

田主丸で生れた『日子坐王』の妃であります『祁都比賣命』は渡来人の『氏』のの入ったと考えられ、ひょっとしたら『息長水依比賣命』と同一人物かも知れません。(天御影神は『氏』を名乗っていたのかも知れません。)

また、第26代継体天皇は古事記には『本杼』(おほど?)と述べられ、『氏』の末裔を感じます。天皇家には漢族『氏』の血が這入り、熊襲(狗呉)との差別化が行なわれたものと考えられます。

 

 

《追補》2023.10.27

天御影神については、

その後の考察で、後漢時代に中国四川省成都(蜀)の大守(大臣の事)をしていた『高躬』コウキュウ=タカミ(倭では、『高躬タカミ結び神』と呼ばれていると、考察されます。)が、日田~うきは・朝倉に遣って来ており、日田ダンワラ遺跡から出土した金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡(曹操の墓から出土した鉄鏡と同一の物です)と、京都『東寺』の『高野行状時図画』に『天御影神』の上に『ただし書き』で、『魏(曹操の國の事)の大臣』と記入されています。

『高躬』は『袁尚』の姉妹を娶っており、『袁』の字の附いた人物が居ても不自然ではありません。

『高躬』は、ホツマツタエでは、トヨケ『豊受大神』とも呼ばれて、大山祇一族(月氏=葛木氏)を従えていました。トヨケの娘がイサコ(イザナミの事)で、『ゆふいん』で、アマテル=天火明命=饒速日命=瓊瓊杵尊を儲けます。

『アマテル』は、『ゆふいん高天原』=塚原(霧島神社)から『天孫降臨』を行い、糸島・博多から『八洲廻り』(日本一周)を『天之児屋根命』(景行天皇=猿田彦の事)を右の羽として敢行し、茨城県つくばでは、『ニハリ新治の宮』を設けます。

『ニハリの宮』は、茨城県以後に、『うきは吉井町』『日田』にも設けます。

『イサコ』の弟が『日高彦彦穂穂出見尊』=(記紀では、孝元天皇と述べられています。)で、『アマテル=瓊瓊杵尊』の後を継ぎます。

『瓊瓊杵尊』の叔父が、『日高彦彦穂穂出見尊』と謂う事に為ります。

『日高彦彦穂穂出見尊』は、阿蘇で、南九州から進出していた息長氏(秋永氏)=賀茂武御雷男=健磐龍命=豊玉彦の娘、阿蘇津姫=龍神姫=豊玉姫を娶り、ウガヤフキアエズを宮崎鵜戸神宮で儲けます。ウガヤとは、『お産』を行う『囲い閉屋根の在る家』の事で、船で移動中に産気附いて、岩の上に草木葉を敷いてお産をしたと考察されます。

ウガヤフキアエズは記紀では、開化天皇(若倭根子日子大毘毘命)の事で、住吉神(高良大社で祀られています。)とも謂います。

『豊玉姫』の弟が『八咫烏ヤタガラス』(秋永氏)=賀茂建角身命=賀茂速甕玉命カモハエミカタマ(阿蘇國造神社)=琴平神=松尾神(お酒の神様)であります。

『賀茂建角身命』は、ホツマツタエの記述では『アマテル=瓊瓊杵尊』の妃であるイカコヤ姫を貰い受け、カワイの國を賜ります。カワイの國とは、久留米市竹野郡タカノゴオリ川会邑カワイムラ唐島カラシマ秋永地区を意味しています。

『イカコヤ姫』から生まれたのが、『玉依姫』です。

『玉依姫』は、『日高彦彦穂穂出見尊』の妃に為り、『カンタケ』=『ミケイリ』=『天日鉾』=『ツヌガノアラシト』=『崇神天皇』=『スサノオノミコト』を儲けます。

 

『日高彦彦穂穂出見尊』の跡目は、『豊玉姫』が儲けた『ウガヤフキアエズ』=開化天皇=住吉神と決まっており、『豊玉姫』の姪『玉依姫』が儲けた『天日鉾』の処遇に困った『日高彦彦穂穂出見尊』は、『豊玉彦』(海神族の首領)と相談して、韓半島新羅國王にする事にして、有明海→五島列島→壱岐→対馬→金海→新羅に渡ったものと考察できます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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