日本国家の歩み 


 外史氏曰

   すばらしき若者たち
 
   祖国日本の行く末

  

ものすごい先生たちー105 ( 朱舜水ー2  ・水戸家に招聘、逝去 )

2009-03-02 19:24:04 | 幕末維新
田中河内介・その104 


外史氏曰

【出島物語ー16】

 朱舜水-2

義公光圀の招聘

 日本に帰化した舜水の才識は、たちまち多くの識者の注目するところとなっていった。 そして長崎亡命から六年後の寛文四年( 一六六四 )、舜水六十五歳の時に、舜水の後半生の生き方を 決定することになる事態がやってきた。

 舜水の招聘 (しょうへい) に、義公光圀の意を受け、水戸藩の儒者 小宅(おやけ)処斎 【 名は正順(せいじゅん)、この時二十八歳 】 が 長崎に派遣されて来た。  舜水はこの時、江戸でも其の名が知られており、光圀は密かに 老中 酒井忠清 に諒解を求め、そして 正順の派遣となった。
 さて正順は 寛文四年( 一六六四 )八月、長崎に赴き 舜水に会い、筆談をもって話を進め、会見は前後五回に及んだ。  第三回の会談の折に、舜水の水戸招聘を 切り出したが、この時は 舜水は受けなかった。 そのうち、正順が光圀の学を好む姿勢、文教に対しての姿勢について述べるに及んで、舜水の気持も 漸次軟化していった。 そこで、正順は第五回目に、再び東遊を促した。 正順が、 「 学校建設の折には、是非お越し願いたい、その場合 禄高も十分備えてあります。」 旨伝えると、舜水は、 「 若し、僕を招く場合は、禄を論ぜずに、礼を論ぜよ。」 といい、光圀の心中は必ずや学校を興さんということであろうと判断し、光圀の人物に期待を寄せた。 このようにして生順は会談を終え、その任務を果たして この年の十一月に江戸へ帰った。

 舜水は 義公の招きに応じ、翌 寛文五年( 一六六五 )六月下旬に長崎を発ち、七月十一日に江戸に着いた。 義公光圀との対面は七月十八日に行なわれた。 この時、舜水は六十六歳、光圀は三十八歳であった。 
 義公は この時より四年前の 寛文元年( 一六六一 )、三十四歳の時に、第二代の水戸藩主 に就いているが、修史 ( 「大日本史」の編纂 ) の事業は、それ以前より始めていて、明暦三年( 一六五七 )には 史局を駒込邸内に開いている。 そして、光圀 四十五歳の 寛文十二年( 一六七二 )の春には、この史局を小石川邸に移し、彰考館と名付け、修史事業の飛躍的な前進を図った。 舜水の水戸藩への招聘(しょうへい) は、史局が、小石川邸に移る前の駒込邸にある時になる。
 対面の翌日、舜水は 小宅正順に対して、昨日のことについて感謝の念を伝えて、光圀の賢明で謙遜、温厚さを賞賛している。 もとより、義公は 舜水に対して 弟子としての礼をとり、賓師として迎え、生活万端にわたりその処遇には意を用いたのであった。
 こうして、舜水は不慣れな江戸での生活に入り、八十三歳で没する迄の十七年間の人生を、水戸家の賓師として送ることになった。

 藩内において舜水の学問、才識、その教えを受ける者は、藩主一族をはじめ、家老、重臣、史官など多数にのぼった。 そのため藩内の学風は 次第に活発になった。
 また光圀は、安積覚 ( 十歳 あるいは 十三歳、諱は覚、字は子先、老圃、また澹泊齋と号す。 幼名は彦六、後に角兵衛と称す ) と 今井弘済 ( 十四歳、字は将興、諱は弘済、松庵、宋柏と称し、後に小四郎と改める。 号は魯齋 ) の二人を、門弟として舜水に 直接指導を受けさせた。 このことには、二人を舜水に入門させ、舜水の学問をしっかり学ばせ、後世にも伝えようとした光圀の深い配慮が窺える。
 二人とも史館に入り、澹泊は 後に彰考館総裁ともなり、大いに史筆を振って活躍する。 こうしてみると、光圀の始めた 『 大日本史 』 の編纂事業には、舜水は直接には関与していないが、その門人を通して、舜水の学問、見識が大いに反映していったと考えられる。
 このように 舜水の人となりは、その門人たちによって、正しく把握され 継承されて行くのである。 ( この項、文恭先生・朱舜水 木下英明著 参考 )

 明朝回復に人生の全てをかけていた舜水は、図らずもその驚くべき博学にして多識の才を、聖教の学に、殖産興業、生産技術等の多方面に、異国の地において発揮することになった。


舜水終焉

 『 舜水は日本亡命の前から健康を害していたが、亡命の後も、絶えず色々な病気に悩まされていた。 門弟の 安積覚 と 今井弘済 の撰になる 『 舜水先生行実(こうじつ) 并略歴 』 ( 以下 『 行実 』 ) は、日本側の朱舜水伝として最も確実な資料である。

 舜水八十一歳の時 『 行実 』 に、

     先生は平素から、せきをして血をはく病気になられてから二十余年になるが、精神は
     しっかりしていて、かりにもだらしない様子はありませんでした。 年八十をこえて老人性
     の病気がやや進んだようです。 膚がかわき、寝ているためにふきでものを生じ、起き
     あがって座る事も出来ず、また頭痛にも苦しんで床に寝ておられました。

とある。  これに対して光圀は、天和元年( 一六八一 )、舜水八十二歳の時、 『 行実 』 によれば、

     先生は、日ごとに甚だしく衰弱された。光圀公は、しばしば使者を遣わして菓子や酒の
     肴を贈って慰問された。さらに 医者 奥山玄建(げんけん) によって治療と薬とを授けられた。
     これより、先生は病む毎に、常に玄建の薬を服用された。先生は、やがて治療を辞退して
     こう言われた。 「 玄建は普段、諸侯のご典医で、地位のある人を医療する人である。 
     今、私の病気はふきでものが 段々すすみ、手足はただれております。 玄建に脈を診て
     もらえば、おそらく医者の手に伝染し、人に迷惑をかけることが多くなるでしょう。

とあって、舜水は 病が進行するにつれて、他人への伝染や、医官 奥山玄建 の立場も思慮し、医療の施しを 辞退するのであった。 また、

     人を傷めて自分を利するという不道徳なことは、学徳の高い君子の戒めるところである。
     まして、私はもはや老いぼれの年齢八十歳を過ぎている。 それを、薬を用いて朝夕にさし
     迫った命を延ばそうと思うのは、未だ天命を知る者とは言えないのである。

といった。 そこで玄建は、ただ薬をつくり、舜水は 光圀の意中を察し、これを飲むのであった。  そして舜水の永眠の時は迫った。 時に天和二年(一六八二)三月。

     壬(じん)戌(じゅつ)二年(一六八二)三月、宴を設けて親友及び門人等を招き、病気を
     おして起きあがって座り、ねんごろに教えさとした。 これはすでに心に決めた永久の
     別れであった。 四月十七日、他の病気もなく、言葉も様子も普段とかわらず、
     午後二時、にわかに逝去、八十三歳であった。 』  ( 安東省菴 松野一郎著 )

とある。 舜水は水戸藩に拠ること十七年間、その波瀾に富んだ八十三年の生涯を、 水戸藩駒込邸 ( 現 東京大学農学部構内 ) において閉じた。


ひたすら明朝の回復を祈って

 舜水の心中、遂に不変にして動かざるもの、病を得て血を吐いても、生ある限り祈念していたことは、祖国の回復であった。

 『 舜水の骸は、瑞龍山 の 水戸徳川家墓地 の一画に葬られたが、それについて舜水の意中においては、明朝回復の時には、骸であっても 故国に帰ることを念じ、光圀に このことを願われたというのである。 また舜水は、もらい受けたる扶持を、生活の費用なしといいながらも、これを節約して 貯蓄をし、明朝回復のための 軍資金づくりをしていた。 幸い 中国においては、黄金の価値は日本に勝りて 百倍とのこと、これを有効に活かさんとしたが、清朝には失政が無く、空しく舜水は、臨終の折に、これを全部水戸家へ返納したのであった。  また舜水は、明朝回復の為に、自ら仕えた 監国魯王の勅書 は、襟にかけたお守袋に入れておいて、肌身離さなかった。 』 ( 文恭先生・朱舜水 木下英明著 )

 このように その生涯の最期の瞬間まで、朱舜水の明朝復興への執念は、何事があっても 変わることがなかったのである。

 『 光圀公は 舜水の死を心から惜しみ、野辺の送りに付き従い、世子(せいし) 綱條(つなえだ) も会葬した。 四月二十六日、常陸國久慈郡太田郷 ( 茨城県常陸太田市 ) の瑞龍(ずいりゅう) 山 に葬り、明朝の式により 墳墓をつくった。 光圀はその墓に自ら筆をとって 「 明徴君子朱子墓 」 と書きしるした。 徴君とは、召されても仕官しない隠士の美称である。 「 子 」 は、先生という意味で尊称である。 舜水は 安南でかって死に直面した時 ( 安南供役(きょうえき) の難 ) に、自分の墓には 「 明徴君朱某之墓 」 と書くようにと言っているが、明朝が倒れて清の時代になっても、そして水戸藩に身を寄せても、舜水はあくまで明の国民であるという誇りを失わなかった。 光圀は、その舜水の意を汲んで 書き記したのである。 そしてその碑陰には、舜水に幼き時より師事した 安積覚 による撰文が、墓誌名として、墓石の背面に刻まれたのである。 』 ( 安東省菴 松野一郎著 )


舜水祠堂

 更に、七月十二日には、光圀は 家臣たちと協議して 舜水の諡号(しごう) に 「 文恭 」 を撰んだ。 翌 貞享元年( 一六八四 )十二月十二日、江戸駒込の水戸藩邸内に 舜水の祠堂 がつくられ、このまわりには 桜が植えられた。 それは、舜水が桜を大変愛し、 「 中国にも桜を植えさせることが出来れば 当然、中国でも 花の最高のものになるだろう 」 と称賛していたためである。  舜水の忌日にあたる四月十七日は、家康の忌日と重なるので、一日ずらし、四月十八日に 舜水をまつる祭儀が、これより後、執り行われるようになった。  その後、この舜水祠堂は 元禄十六年( 一七〇三 )、火災にあって焼失、正徳二年( 一七一二 ) に 水戸の 八幡小路 に再建された。 そして、この役宅において、祠堂講釈 が始まり、経書が講義されるようになった。 これがきっかけとなって、水戸の文教の風が起こり、後の 烈公斉昭( 一八〇〇~六〇 ) の時代に、藩校 弘道館設立の淵源となった。

 光圀は その後、元禄三年( 一六九〇 )、六十三歳の時、幕命により退隠を許され、藩主を 世子 綱條 (つなえだ) に譲り、遺言を残し 江戸より水戸に帰った。 そして 翌 元禄四年には 常陸太田の 西山 (にしやま) の 山荘( 西山(せいざん)荘 )に移った。 光圀の多年の宿願であった 湊川建碑 ( 嗚呼忠臣楠子之墓 ) は、その翌年の 元禄五年( 一六九二 )、六十五歳の時に実行される。  元禄十一年( 一六九八 ) には 彰考館を水戸に移し、大日本史の編纂に全力を傾け、元禄十三年(一七〇〇)、七十三歳で 西山荘に於て没した。

 水戸家代々の藩主たちが眠る、緑深き瑞龍山の 光圀の墓域 に隣して 朱舜水の墓がある。 ついに舜水の骸は祖国に帰る機会を持たなかった。 今でも、またいつまでも、 師弟二人して、世の行く末を 語り合っているかのようである。

                    つづく 次回



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