日本国家の歩み 


 外史氏曰

   すばらしき若者たち
 
   祖国日本の行く末

  

ものすごい先生たちー88 ( 清河八郎・伝記-7  ・九州遊歴ー1 )

2008-11-20 12:31:44 | 幕末維新
田中河内介・その87 

外史氏曰

清河八郎のおいたち-7

 九州遊歴ー1

 八郎の志す所は、儒者として一世の師となることであり、又 天下第一等の人物になることである。 八郎の京都に来たのは、この地を文学の淵叢と想ったからである。 しかし 三ヶ月経った今、そこは学問修行の地として 相応しい場所とは思えなくなっていた。 文学の中心は やはり江戸を於て外に無い。 そう思った彼は、復た東に帰ろうと思ったが、その前に 自分を磨く為 九州旅行をしてやろうと考え、嘉永三年(一八五〇)七月三日に 京都を発した。

 八郎の目的とする学問は 経世済民( けいせいさいみん、国を治め民を救う ) である。 そこで今回の九州旅行の意義を  『 西遊紀事 』 序に 次のように記している。
      「  およそ万里の道を行く者は、先ず宜しくその( 土地の ) 形勢を明らかにし、その風土を
      審かにすべし。  形勢すでに明らかに 風土すでに審かなれば、すなわち 人情世態 自ら
      心に温藉 (うんしゃ、やさしくよくわかる) す。  加うるに万巻の識を以てして之を成さば、
      すなわち 経世済民の学において 将に資することあらんとす。 これ 余の挙ある所以なり。 」 
      ( 原漢文 ) ( 西遊紀事序 )

 その土地を知り、その歴史を知り、その優れた人物を訪ねることにより、自らの見識を磨こう。 こう思った八郎は、七月三日に九州旅行に旅立った。 伏見から船で淀川を下って夕暮れに 大坂に着き、その日は 葭屋橋わきの瓢箪屋に泊まった。 そして 翌 七月四日、大坂から九州小倉行の船に乗った。 船賃は銀二十二匁である。 相客に 肥後熊本の僧が三人いた。 九州に着くまでの 十一日間の航海は、当初は 逆風に悩まされ続け、その後には 二十三年ぶりと言われた程の台風の直撃を食らい、一行は 九死に一生を得る思いを経験することになる。

台風に遭遇する

 出航後から、一行は 逆風に さんざん悩まされ続けて来たが、七月十一日午前八時頃からは、待ちに待った東風が吹き始め 船は漸く快調に進み始めた。 乗客一同は ほっとして大いに喜んだ。 白砂青松の海岸が連なる倉橋島を過ぎ、内海の景色は ますますに美しい。 このような調子で 船は昼過ぎまでに 二十里ばかりを順調に進んだ。 そうしているうちに、まもなく 風向きが南方向に変わり始めた。 船が安芸を過ぎて周防にかかった頃、 たちまち 船の周りに雲霧が立ちこめ、急に雨が降り出し、猛烈な暴風雨になった。 台風の接近である。 
 今はもう 船頭も 手段も尽き果てたのか、運を天に任せて帆柱にしがみついているだけである。 客はみな身を縮め、手を合わせて念仏を唱えるばかりである。 その中にあって 八郎は 全て思い諦めて、 「 今年 二十一歳、やるべき事はやった。 どのようになるかは 全て天命だ 」  と、自分に言い聞かせていた。 午後二時頃、船は台風の目に入った。 風の勢いが急に弱まり、日の光が差し込んできた。 突然視界が開け 目の前に 平群(へぐり) 島 の島影が現れた。 一行は島に上陸して 漁師の家に入って一休みした。 程なくして台風の目が去り、再び暴風雨が荒れ狂い始めた、山は鳴り 谷は叫ぶ。 家はきしみ、今にも崩れんばかりである。 みな顔を見合わせて言う  「 虎の穴から逃れ、竜の尾に泊まったようなものだ 」 と。 宿の漁師は言った  「 私も今まで長生きして来たが、こんなにひどい暴風雨を経験するのは生れて初めてだよ。 畑の物もみな倒れた。 あなた方は この島に上らなかったら、溺れてしまったに違いないよ 」
 夜十時頃になって台風は通り過ぎたのか、風はようやく収まった。 一同は ほっとして 魚を料理して 再生を祝し合った。 そこで眠ろうとしたが、蚊が出て来て とても眠るどころではなかった。
 八郎にとっては 生来初めての経験で、流石に余程応えたと見え、殆ど難破を免れ難かったところを 幸運にも助かったのは  「 恐らく父母の応護する所か 」  と日記に書いている。
 七月十四日、船は赤間関に着いたので、上陸して入浴 結髪した。 船に戻ると、日暮れに 船の周りに 蕎麦(そば) を売る舟や 酒や菓子を売る舟が来る。 女を乗せた舟も来た。 その舟には 屋根があり、白粉を塗った女が 屋根の上からこちらの船縁をよじ登って 上り込み 誘うのであった。
 船は夜になってから出航する。 半里ばかり進んで、いよいよ九州の大里(だいり) に着いた。 さらに 二里航行して 目的地の小倉に着く。 七月十五日である。 一同 口々に、命あって無事に 小倉に着いた事を祝し合い、それぞれの方面へと別れて行った。


九州での足取りの 概要

 小倉に一泊後、箱崎八幡宮に詣で、太宰府天満宮を拝み、神崎(こうざき) を通って佐賀に行き、佐賀の南、本庄から舟に乗って諫早(いさはや) に至る。 それより長崎街道を七里陸行して、日見峠を越えて目的地の一つ 長崎に着く。 七月二十二日の事である。 
 長崎では、京都帯屋の知人から紹介された 綿布商 中野屋貞助・貞七父子の世話になり、持ち前の好奇心で 心行くまで見て周り、十日間滞在した。
 その後 長崎を後にした八郎は、雲仙岳を越えて島原に出、そこから船に乗り 七里対岸の小島川( 熊本に二里の所 )に着く。  熊本からは、草場佩川(くさばはいせん) に揮毫を頼むため、北上して 再び佐賀に至った。
 次に 広瀬淡窓 (ひろせたんそう) に面会するため、西して 筑後川を遡り、天領 日田に至り、咸宜園(かんぎえん) を訪ねた。 日田からは 山国川に沿い、耶馬溪の奇観を見、宇佐八幡宮に参拝、引き返して中津を通り、八月十七日に小倉を出航して 九州の地を離れた。 三十二日間の 北九州での旅であった。 その間 道中の至る所、先日の台風の爪あとが生々しく残り、松の大木が道に倒れていたりした。  民家も倒壊して人も死んだという。 中でも 島原半島の被害は特にひどく、百数十の家屋が壊れ、山野もすべて枯れた色になっていた。

 次回は、もう少し詳しく この九州旅行の事を述べたい。


                 つづく 次回



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