日本国家の歩み 


 外史氏曰

   すばらしき若者たち
 
   祖国日本の行く末

  

ものすごい先生たちー90 ( 長崎から 世界史の潮流を復習する )

2008-12-03 15:23:10 | 幕末維新
田中河内介・その89 


外史氏曰

【出島物語ー1】

 折角の出島である。 ここでしばらく 清河八郎の九州旅行からの 寄り道の話に入る。 出島の沖の 海の彼方の世界に目を向けよう。 

 まず、清河八郎の九州旅行の時より、少し前のことになるが、頼山陽が 文政元年( 一八一八 )、長崎を訪問した時の話しをしよう。

 頼山陽は 三十九歳の 文政元年、父春水の三年忌の法要を営むため、京都から満二年ぶりで広島に帰着。 二月十七日の法要終了後の三月五日に、九州遊歴に向けて広島を発った。

 長崎に行って 異国の風物に接することを 最大目標に、九州各地を遊歴することは、山陽のかねてからの 念願のひとつであった。 父の 春水も長崎遊覧を希望しながら、果す事が出来なかったのである。 山陽は その父の分も見て置きたかったのかも知れない。 三年忌が済んで父の喪が明けると早々に出掛けた。

 そして その長崎には五月下旬から 八月二十六日まで、三ヶ月間も滞在した。

 この間、一年一度の オランダ船の来航に遭遇し、その光景を実見することが出来た。 山陽は、「 荷蘭(おらんだ) 船行 」 の長詩を賦し、オランダ船を大海亀と評した。 また、オランダの軍医から、通訳を通じて、ナポレオンのモスクワ遠征に従軍した体験を聞き、「 仏郎王(ふらんすおう) 歌 」 を作って、ナポレオンの覇業を回想したりしている。


頼山陽の肖像 (京都・頼 新氏所蔵)
天保3年(1832)9月、病没の直前に、門人 池野義亮(大雅堂二世)に画かせたもの。


      荷蘭船(おらんだせん) の行 (うた) (原漢文)
   碕港(きこう) の西南 天水交わる。 
   忽(たちま) ち見る 空際(くうさい) 秋毫(しゅうごう) を点ずるを。
   望楼(ぼうろう) の号砲 一たび怒暤(どこう) すれば。
   二十五堡(ほ) 弓(ゆみ)弢(とう) を脱す。
   街声(がいせい) 沸くが如く 四(よも) に喧嘈(けんそう) す。
   説(と) く 是(これ) 西洋より 紅毛(こうもう) 来ると。
   飛舸(ひか) 往きて迓(むか) え 鼓鼛(ここう) を聞く。
   両(ふた) つながら 信旗(しんき) を揚(あ) げて 濫叨(らんとう) を防ぐ。
   船 港に入り来ること 巨鼇(きょごう) の如し。
   水浅く 船大(だい) に 動(やや) もすれば 膠(こう) せんと欲(ほっ) す。
   官舟(かんしゅう) 連珠(れんしゅ) 幾艘(いくそう) を纍(つな) ぎ。
   之を牽いて進む声 謷謷(ごうごう) たり。
   蛮船(ばんせん) 水を出ずる 百尺高く。
   海風淅淅(せきせき) として 罽旄(けいぼう) を颭(ひるがえ) す。
   三帆(ぱん) 桅(ほばしら) を樹(た) てて 万絛(ばんとう) を施(ほどこ) し。
   機(き) を設けて 伸縮桔暤(けっこう) の如し。
   漆黒(しっこく) の蛮奴(ばんど) 猱(さる) よりも捷(はや) く。
   桅(ほばしら) に升(のぼ) りて 絛(とう) を理(おさ) め 手(て) もて爬搔(はそう) す。
   碇(いかり) を下ろして 満船(まんせん) 斉(ひと) しく 噭咷(きょうとう) し。
   巨砲を畳発(じょうはつ) して 声勢(せいせい) 豪(ごう) なり。
   蛮情(ばんじょう) 測り難く 廟(びょう) 謀(ぼう) 労(ろう) し。
   兵営猶(なお) 豹韜(ひょうとう) を徹せず。
   嗚呼 小醜(しょうしゅう) 何ぞ憂目(ゆうもく) の蒿(こう) を煩(わずら) わさん。
   万里(ばんり) 利を逐(お) うて 貪饕(たんとう) に在り。
   憐れむべし 一葉(よう) 鯨濤(げいとう) を凌(しの) ぐを。
   譬(たと) えば 浮蟻(ふぎ) の 羶臊(せんそう) を慕うが如し。
   乃(すなわ) ち 鶏(にわとり) を割(さ) くに 牛刀(ぎゅうとう) を費やす母(な) からんや。
   乃(すなわ) ち 瓊瑤(けいよう) 木桃(もくとう) に 換(か) うる母(な) からんや。


通訳
 長崎の西南、水天はるかに相接する所、たちまち小さい黒点が見え始めると、物見櫓の合図の砲声が 空をつんざいてとどろき渡る。 すると、港の方々に築かれた二十五の台場では、急に警備を厳重にする。 街では方々で 「 それ西洋から紅毛人が来た。」 と、それこそ鼎(かなえ) の沸くような騒ぎである。 番所からは、大太鼓を叩きながら早舟を飛ばして迎えに行き、こちらからも蘭船からも信号旗で混雑を避けるために合図をする。 船が港に入って来るのを見ると、まるで大亀のようだ。 水は浅く船は大きいので、ややもすると座礁しそうである。 それで番所の船が幾艘も珠を連ねたようにつながって、大騒ぎしながら蘭船を引いて来る。 見ると実に大きい船で、水際から高く、百尺位も抜け出で、淅々たる海風に大旗をそよがせている。 帆柱が三本、それにたくさんの綱を張り、機械仕掛けで綱を伸縮していること、あたかもはねつるべのようだ。 漆のように真っ黒いインド人の下級船員は猿よりも敏捷で、帆柱に昇って巧みに綱を手でさばく。 いよいよ碇を下ろすといっせいに何か大声で叫び、大砲をつるべ撃ちにして殷々轟々、実に豪勢なものだ。 かような次第で外国の事情測りがたしとして、政府では対策に頭をいためているし、自然、鍋島・黒田の兵営も守備を徹しないでいるのである。 ああしかし、彼らは何もさように心配するほどのものではあるまい。 ただ、万里の波濤をしのいで貿易の利を貪るだけ、領土的野心などあるのではない。 彼らが一葉の船に乗って大波をしのいで来るのは、あたかも大蟻がなまぐさい羊肉を慕うて集まるようなもの、むしろ哀れむべき輩である。 それに対してあれこれ対策に腐心したり、警備を厳重にしたりするのは、あまりに仰々しい道具立てではあるまいか。 費やすところ多くて、得るところ少ない下策ではなかろうか。( 山陽詩鈔新釋 伊藤靄谿註釈 書芸界 )


長崎港に 多くの小さい引き舟に引かれながら オランダ船が入港する図(1820年)
石崎融思「瓊浦華蘭進港図」の部分 長崎市立博物館蔵


 これが文政元年のオランダ船入港に遭遇しての、頼山陽の 見て感じた長崎の一光景である。 山陽のこの長詩は 実に堂々としており、真にせまった すばらしい描写ではないか。

 長崎警備は佐賀藩と福岡藩が一年交代で士卒一千名を出してこれに当り、大村、平戸、唐津、久留米等九州の十七藩が有事の日の後詰を命じられていた。 しかし、泰平の世が長く続くと警備もいい加減になって、大いなる手抜きが常態化されていた。

 しかし、文化五年七月( 一八〇八 )、イギリス軍艦 フェートン号の長崎港侵入による乱暴狼藉事件、いわゆるフェートン号事件は、長崎の警備を改めて強化させることになった。



 くどいようではあるが、重ねて述べる。 清河八郎の旅の話の続きをする前に、話が寄り道になるかも知れないが、一五世紀に始まった世界史の潮流を 「 出島物語 」 と称して どうしても話して置かねばならない。 
 なぜなら これらのことを知らずして 幕末当時の志士たちの心情を理解することは到底不可能であるし、ましてや 近世以後、現在に至るまでの 我が国の真実の歴史を理解することは出来ないのである。



 十五世紀に始まった大航海時代の到来は、同時に地球規模での植民地争奪戦、力の時代、戦国時代の始まりでもある。 ヨーロッパ諸国による力による侵略を食い止めるに力がなければ、その植民地として組み込まれてしまう。 そのような時代の始まりである。


                  つづく次回



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